古代中国語から日本語への語彙の流入が従来考えられてきたより複雑そうだということがわかってきました。ポイントは、古代中国語のある語(これ自体の発音と意味も変化しています)が違う時代に、違う場所で、違う人間によって日本語に取り込まれてきたということです。
例えば、古代中国語のxok(黑)ホクとそのバリエーション形は、日本語にxという音およびそれに似たhという音がなかったために、ある時には*puka(深)、*puku(更く)(のちにɸuka(深)、ɸuku(更く))という形で取り入れられ、またある時にはkoku(黒)あるいはkogu(焦ぐ)、kogasu(焦がす)、kogaru(焦がる)という形で取り入れられたようだという話をしました。前者は、語頭のxまたはhをpに変換したケース、後者は語頭のxまたはhをkに変換したケースです。
外国語の語彙を取り入れる際に、不慣れな音を慣れた別の音に変換するのは一般的ですが、不慣れな音を単純に取り除いてしまうのも珍しくありません。古代中国語のxok(黑)とそのバリエーション形は、頭子音をpに変換してpuka(深)、頭子音をkに変換してkoku(黒)としただけでなく、頭子音を取り除くこともあったと見られます。こうしてできたのが、oku(奥)です(oki(沖)も同源です。陸地から見て奥が沖です)。日本語ではkura(暗)/kuro(黒)の存在が大きく、古代中国語のxok(黑)は少し意味がずれたところに居場所を見つけたようです。それが「深い」や「濃い」のようなところです。暗い緑、深緑、濃い緑と並べてみるとどうでしょうか。
●よく使うあの語が実は・・・
ここでkosi(濃し)という形容詞について考えますが、yosi(良し)とasi(悪し)といっしょに考えます。これらの形容詞には共通点があるからです。昔の日本語の形容詞はsiで終わっていましたが、kosi(濃し)、yosi(良し)、asi(悪し)のようにsiの前が一音節の形容詞は極めて少ないのです(それに応じて、現代の日本語にもiの前が一音節の形容詞はほとんどありません)。筆者は、昔の日本語に見られるkosi(濃し)、yosi(良し)、asi(悪し)のような例外的な形容詞は外来語であると考えています。
古代中国語にljang(良)リアンとak(惡)という語がありました。日本語では、これらにryauとaku(そのほかにwo、u)という音読みを与えました。まず、ryauのほうに注目してください。
よく知られているように、昔の日本語は語頭で濁音を使うことを許しませんでしたが、語頭で流音(lやrの類)を使うことも許しませんでした。ある時代に古代中国語の「良」がryauという読みで日本語に取り入れられましたが、それより前の時代には日本語ではryauという音は不可能だったのです。ryauのrを取り除いたyauならどうかというと、これも母音が連続しているために不可能でした。ryauは不可、yauも不可で、yoという形にしてようやく取り込める状況だったのです(au→oの変化はこれまで再三見てきました)。古代中国語の「良」は、ryauという形で取り入れられる前に、yoという形で取り入れられていたと考えられます。古代中国語の「良」を形容詞化したのがyosiというわけです。
※似たようなことをベトナム系の言語に対しても行ったようです。ベトナム語では家のことをnhàニャと言います。このような語を昔の日本語にnyaという形で取り入れることはできません。昔の日本語にはnya、nyu、nyoの類がないからです。どうしたかというと、nを落としたya(家)という形で取り入れたのです。wagaya(我が家)のya(家)です。天皇などが住むところは、前にmiを付けてmiya(宮)と呼びました。miya(宮)がある場所がmiyako(都)です(このkoはkoko(ここ)やdoko(どこ)のkoと同じで場所を意味しています)。これらはベトナム語のnhà(家)のような語が起点になっていると見られます。ちなみに、ベトナム語で「家」はnhàですが、「庭」はsânスンあるいはソンです。sân(庭)のâは曖昧母音[ə]です。ベトナム語のsân(庭)のような語が日本語のsono(園、苑)のもとになったようです。
古代中国語の「良」を形容詞化したのがyosiなら、古代中国語の「惡」を形容詞化したのはなんでしょうか。日本語の発音体系では、古代中国語のak(惡)にそのままsiをつなげてaksiという形容詞を作ることはできません。ak(惡)の子音kのうしろに母音を補ってakusiのような形容詞を作るか、ak(惡)の子音kを落としてasiという形容詞を作るしかありません。同様のことは、古代中国語のxok(黑)にもあったと思われます。日本語の発音体系では、古代中国語のxok(黑)にそのままsiをつなげてkoksiという形容詞を作ることはできません。xok(黑)の子音kのうしろに母音を補ってkokusiという形容詞を作るか、xok(黑)の子音kを落としてkosiという形容詞を作るしかありません。絶対にそうでなくてはならないということではなく、可能な一つの選択肢として、古代中国語のak(惡)からasi(悪し)という形容詞が作られ、古代中国語のxok(黑)からkosi(濃し)という形容詞が作られたと見られます(この機会にusi(憂し)という形容詞についても本記事の終わりの補説に記しました)。日本語において確固たる位置を占めているkura(暗)/kuro(黒)から少しずれた意味領域に進出しようとする古代中国語のxok(黑)とそのバリエーション形からは、すでにɸukasi(深し)のような語が生まれていましたが、新たにkosi(濃し)という語が加わったのです。
古代中国語のxok(黑)とそのバリエーション形は、ɸukasi(深し)、oku(奥)、kosi(濃し)などの形で日本語に入り込みましたが、koku(コク)という形でも日本語に入り込んだようです。「コクがある」という時のあのkoku(コク)です。このkoku(コク)は、深み、奥行き、濃厚さのようなものを意味する語だったのです。甘い、辛い、苦い、すっぱい、しょっぱいのような味の区分を示す語とは異質な語です。だから、なかなか捉えどころがなく、しばしば話題になってきたのです。深み、奥行き、濃厚さのようなものは、単純には言い表せないものではないでしょうか。そういうものがkoku(コク)なのです(「コシがある」のコシについては、「腰(こし)」の語源の記事に記したので、まだ読まれていない方は、併せてお読みいただければと思います)。
こうして見ると、古代中国語の「黑」が実に多様な形で日本語に浸透していることに驚かされます。と同時に、古代中国語の「白」も意外な形で日本語に浸透しているのではないかと考えたくなります。今度は、古代中国語のbæk(白)バクに目を向けてみましょう。
補説
usi(憂し)という形容詞
昔の日本語のusi(憂し)も、上で見たkosi(濃し)、yosi(良し)、asi(悪し)のようにsiの前が一音節の例外的な形容詞であり、やはり外来語と考えられます。古代中国語のjuw(憂)イウウは、日本語ではユウという音読みが一般的になりましたが、当初はウおよびイウという音読みで取り入れられました。朝鮮語ではuウ、ベトナム語ではưuイウという読みになっています。古代中国語の「憂」を形容詞化したのがusi(憂し)と考えられます。
yosi(良し)にyosa(良さ)という名詞があるように、usi(憂し)にはusa(憂さ)という名詞があります。usabarasi(憂さ晴らし)のusa(憂さ)です。usi(憂し)/usa(憂さ)の意味範囲はなかなか微妙ですが、「気持ちが晴れない、憂鬱だ、つらい」というのが中心的な意味です。その意味範囲は、「面白くない、不愉快だ、いやだ、厭わしい、煩わしい、気が進まない」などの方向にも広がっています。現代の日本語で使われているuzattai(うざったい)やuzai(うざい)は、おおもとを辿ればここから来ていると思われます。