「南(みなみ)」と「北(きた)」の語源、「みなみ」は存在したが「きた」は存在しなかった

奈良時代の日本語には、ɸimukasi(東)、nisi(西)、minami(南)、kita(北)という語がありました。この中で、kitaは訳ありです。kitaは、使用例があまりなく、「向南」と書かれることもありました(上代語辞典編修委員会1967)。「向南」という書き方を見ると、minamiが主たる方向で、kitaはその反対方向であるという見方が窺えます。

なぜminami(南)が主たる方向なのでしょうか。それは、言うまでもなく、太陽が照っている方向だからでしょう。太陽が照っているminami(南)が人々の注意を引き、主たる方向として意識されるのはわかります。また、ɸimukasi(東)には日の出、nisi(西)には日の入りという見せ場があります。これらに比べると、やはりkita(北)は地味です。

minami(南)の語源

主たる方向であるminami(南)の語源から考えることにしましょう。古代中国語では、tuwng(東)トゥン、sej(西)セイ、nom(南)、pok(北)と言いました。朝鮮語では、tong(東)トン、sɔ(西)、nam(南)、puk(北)と言い、ベトナム語では、đông(東)ドン、tây(西)タイ、nam(南)、bắc(北)バ(ク)と言っています。見ての通り、朝鮮語とベトナム語では、古代中国語(様々な方言があります)から取り入れた語を使っています。一般に東、西、南、北を意味する語があまり古くないことを思わせます。

日本語のminami(南)を古代中国語nom(南)、朝鮮語nam(南)、ベトナム語nam(南)と比べるとどうでしょうか。日本語のminami(南)は一見別物に見えますが、最初のmiを取り除くと、実は似ています。昔の日本語では、尊敬・畏敬の念を示すmiをya(家、屋)にくっつけてmiya(天皇らの住居)と言ったり、miをkokoro(心)にくっつけてmikokoroと言ったりしていたので、miは気になります。

ひょっとして、日本語では南のことを*namiと言っていて、これに尊敬・畏敬の念を示すmiをくっつけたのでしょうか。実際、筆者はそのように考えていた時期がありました。ちょっと違うようです。仮に日本語で奈良時代よりずっと前に南のことを*namiと言っていたとしましょう。そのように*namiがある方向を示す語だったら、逆の方向を示す語も早くにできそうなものです。しかし、奈良時代の日本語を見ると、kita(北)は使用例が乏しく、この語は生まれつつある段階あるいは生まれたばかりの段階にあるように見えます。*namiがある方向を示す語だったという仮定に、大いに疑う余地があります。

*namiがある方向を示す語でなかったのなら、*namiはなにを意味していたのでしょうか。*namiは、太陽そのものを意味していた可能性が高いです。これなら、昔の日本人が*namiの前に尊敬・畏敬の念を示すmiをくっつけた理由がよくわかります。現代の日本人がhi(日)のことをohisama(お日様)と呼ぶようなものです。

*namiにmiが付けられたminamiは、太陽を意味していたが、ɸi(日)に押し負け、太陽が出ている方向を意味するようになった。minamiがある方向を示す語になり、逆の方向を示す語が必要になった。この逆の方向を示す語になったのが、kitaであった。こう考えると、筋が通ります。

太陽を意味していた*nami自体の語源はどうでしょうか。これは明らかでしょう。日本語のɸi(日)が「水」から来ていたことを思い出してください。朝鮮語のnal(日)が「水」から来ていたことを思い出してください。水を意味していた語が水域の浅いところを意味するようになり、水域の浅いところを意味していた語が明るさ・明かりを意味するようになるパターンです。太陽を意味していた*namiは、タイ系言語のタイ語naam(水)のような語から来たと考えられます。古代中国語のnom(南)と日本語のminami(南)からわかるように、タイ系言語の語彙が古代中国語にも日本語にも伝わっていたのです。すでにnomu(飲む)やnami(波)などの語を取り上げましたが、その仲間というわけです。

kita(北)の語源

冒頭で述べたように、南・東・西と違って、北には見せ所・見せ場がありません。kita(北)の語源も消極的なものではないかと予想されます。

例えば、中国語の「北」という漢字は、甲骨文字の時代には以下のように書かれていました。

人と人が背を合わせているところです。古代中国語のpok(北)は、かつて背を意味していたと考えられるのです。なぜ背を意味していた語が北を意味するようになるのでしょうか。それは、人々が太陽が照っている南を向いていて、背のほうに北があるからです。

日本語のkita(北)の語源もこれに似ているようです。まずは、おなじみの図を示しましょう。

水・水域を意味することができなかった語がその横の部分を意味するようになる頻出パターンです。moroは、なにかが二つあって、その両方を指す語になりました。kataは、なにかが二つあって、その一方を指す語になりました。

前回の記事で、奈良時代にkatanasi(かたなし)とkitanasi(汚し)という似た意味を持つ語があったこと(一般に水を意味していた語が濁った水を意味するようになるパターン)、「堅」がkataと読まれたりkitaと読まれたりしていたこと(水を意味していた語が氷を意味するようになるパターン)をお話ししました。日本語のそばに、水のことをkataのように言う言語と水のことをkitaのように言う言語があったわけです。

一番目と二番目の構図だけでなく、三番目の構図もあったと思われます。奈良時代の日本語に、境・分かれ目・区切りを意味するkida(分)という語がありましたが、この語も、kitaのような語が水から陸に上がろうとしていたことを裏づけています。moroは両方を指す語になりました。kataは一方を指す語になりました。kitaはどうなったのでしょうか。

両方の岸を指すこともあったでしょう。一方の岸を指すこともあったでしょう。そして、他方(もう一方)の岸を指すこともあったでしょう。kitaは「他方(もう一方)」を指す語になったのではないでしょうか。

なぜ筆者がこのように考えるかというと、このようなケースをしばしば見かけるからです。

tuma(妻)とは何者か

現代では、tuma(妻)は女性配偶者を意味していますが、奈良時代には、男女を問わず配偶者を意味していました。tuma(妻)といえば、まずこの意味が思い浮かびますが、実は建築の世界にも、伝統的なtuma(妻)という語があります(図はWikipediaより引用)。

これはよく見る家の形です。日本の建築では、図中の「平側」を正面とし、「妻側」を側面とすることが一般的でした。つまり、tuma(妻)は家の側面です。ここで、あの図が再びよみがえってきます。

水・水域を意味していたtumaのような語がその横を意味するようになったのではないかというわけです。

前に東京都と神奈川県の境界になっているtamagawa(多摩川)の話をしたことがありましたが、水・水域を意味するtamaのような語とそれに似た語が広がっていたのでしょう。

水・水域を意味することができなくなったtumaのような語がその横を意味するようになり、ここから建築のtuma(妻)が来ていると考えられます。水・水域を意味することができなくなったtumaのような語がその横の盛り上がった土地、丘、山を意味することもあったと思われます。最終的には、盛り上がった土地、丘、山も意味することができず、先(特に手と足の先)を意味するようになっていったと思われます(「盛り上がった土地、丘、山」→「先」という意味変化については、青と緑の区別、なぜ「青信号」や「青野菜」と言うのかの記事を参照)。ここから来ているのが、*tuma(爪)、tumu(摘む)、tumamu(つまむ)でしょう(手・足の先を意味した*tuma(爪)とitasi(痛し)がくっついてtumetasi(冷たし)ができたという説も正しいでしょう)。ひょっとしたら、tumu(積む)/tumoru(積もる)も、盛り上がった土地、丘、山から来ているかもしれません。

上のtumaと記した構図があったことは間違いなさそうです。ここから、ペアを構成する一方を意味するようになっていったのが、奈良時代の配偶者を意味したtuma(妻)でしょう。

上の図のtumaのところをtomoに書き換えても、しっくりこないでしょうか。tomo(友)とtomo(共)も同じところから来ていると見られます。

tumu(積む)/tumoru(積もる)より抽象的ですが、蓄積と関係が深く、tomu(富む)/tomi(富)も、盛り上がった土地、丘、山から来ているかもしれません。

※本ブログで示しているように、水のことをsam-、sim-、sum-、sem-、som-のように言っていた言語群があり、ここから日本語に大量の語彙が入っていますが、tam-、tim-、tum-、tem-、tom-のような形は、[tʃ]、[ʃ]、[ts]などを介して、sam-、sim-、sum-、sem-、som-のような形と通じていると思われます。

再びkita(北)の語源へ

水・水域を意味していたtumaのような語はその横を意味するようになり、やがて奈良時代の配偶者を意味するtuma(妻)に至りました。結局どうなったのかというと、なにかが二つあって、その一方を基準とした場合の他方(もう一方)を意味するようになったのです。kita(北)の場合も同じと考えられます。水・水域を意味していたkitaのような語はその横を意味するようになり、やがて奈良時代の南の反対を意味するkita(北)に至りました。結局どうなったのかというと、なにかが二つあって、その一方を基準とした場合の他方(もう一方)を意味するようになったのです。このtuma(妻)やkita(北)の例を見ていると、水を意味していた語からやがて「反対」のような意味が生まれてくるのがわかるでしょうか。

 

補説

kida(分)はどこに行ったのか

奈良時代に境、分かれ目、区切りを意味するkida(分)という語があったと述べましたが、この語はどこに行ったのでしょうか。

昔は階段のことをkidaɸasi/kizaɸasi(階)と言っていました。以下は典型的なkidaɸasi/kizaɸasi(階)です(写真は朝日新聞様のウェブサイトより引用)。

kidaɸasi/kizaɸasi(階)という名前を見ればわかりますが、橋の一種と考えられていました。写真のように、一段目があって、二段目があって、三段目があって・・・という橋をkidaɸasi/kizaɸasi(階)と呼んでいたのです。境、分かれ目、区切りを意味するkida(分)とɸasi(橋)がくっついたのがkidaɸasi/kizaɸasi(階)です。kidaɸasiと発音されたりkizaɸasiと発音されたりしていたことからわかるように、kidaとkizaの間で発音がブレることがありました。kida(分)あるいはその異形が、細かく切ることを意味するkizamu(刻む)や細かいかくかくした形状を表すgizagiza(ぎざぎざ)になったようです。

 

参考文献

上代語辞典編修委員会、「時代別国語大辞典 上代編」、三省堂、1967年。