青と緑の区別、なぜ「青信号」や「青野菜」と言うのか

この記事は、前回の記事への補足です。

「青信号」や「青野菜」のような表現を聞いて、「緑なのに、なぜ青と言うのか」と思われた方は多いと思います。実は、この「緑なのに、なぜ青と言うのか」という問題は、日本語だけでなく、細かな違いはあるものの、東アジア・東南アジアの言語に広く見られます。

様々な色が存在する中で、青と緑とその間の色が一つのまとまりとして捉えやすかったという面も否定できませんが、それだけで「緑なのに、なぜ青と言うのか」という問題を説明するのは少し無理があるように思います。

前回の記事でmidori(緑)、waka(若)、wara(藁)に言及しましたが、水・水域を意味していた語がその横の植物を意味するようになることは多かったようです。後述するように、kusa(草)もこのパターンのようです。

※siba(芝)も、sima(島)やsiɸo(潮、塩)と同じで、「水」から来ていると考えられます。奈良時代の人々が用いていたsiba(数)という語も見逃せません。現代の日本語のsibasiba(しばしば)はここから来ています。水・水域を意味していた語が2を意味しようとしたが、叶わず、2より大きい数を意味するようになったと見られます。すでに論じたmoro(諸)/moromoro(諸々)などに似た変化です(数詞の起源について考える、語られなかった大革命を参照)。

奈良時代の日本語にはawo(青)という語がありましたが、そのほかにawa(泡)とawi(藍)という語もありました。明らかに「水」の存在が窺えます。

*ama(雨)、abu(浴ぶ)、aburu(溢る)、appuappu(あっぷあっぷ)、*apa(淡)(すでに説明したasa(浅)とaka(明)と同様)などの語があることから、東アジアで水のことをam-、ab-、ap-のように言っていたと考えられますが、ここにaw-という形もあったと思われます(東アジア・東南アジアでは、[v]という子音はあまり一般的でありませんが、[w]はよく見られます)。

この水・水域を意味していたaw-のような語がしばしばその横の植物を意味していたとしたら、どうでしょうか。

青と緑の間に連続性があり、なおかつ、水・水域を意味していた語がその横の植物を意味するようになることがよくあったという言語の歴史を考えると、奈良時代の日本語のawo(青)が水・水域の色から植物の色までを含んでいたことが納得できそうです。

 

補説

kusa(草)とその仲間たち

kusa(草)は、上に挙げたmidori(緑)、waka(若)、wara(藁)などと同じで、水・水域を意味していた語がその横の植物を意味するようになったと考えられるものです。水を意味するkus-のような語があったということですが、本当にそのような語があったのか検証してみましょう。

前回の記事の話を繰り返すと、古代北ユーラシアに水を意味するjark-、jirk-、jurk-、jerk-、jork-(jar-、jir-、jur-、jer-、jor-、jak-、jik-、juk-、jek-、jok-)のような語があり、そこから日本語に大量の語彙が入りましたが、その中にyoko(横)という語がありました。これは、水・水域を意味していた語がその横の部分を意味するようになるパターンです。yoko(横)のほかに、yogoru(汚る)/yogosu(汚す)という語もありました。これは、人間が自分たちの使用(飲んだり、料理をしたり、体を洗ったり、服を洗ったり)に適する澄んだ水と自分たちの使用に適さない濁った水を区別し、一般に水を意味していた語が後者の水(濁った水、汚れた水、汚い水)を意味するようになるパターンです。これは、水を意味していた語から汚物関連の語彙が生まれるパターンです。

本ブログで示しているように、水を意味する語から実に様々な語彙が生まれてきますが、水を意味するkus-のような語から汚物関連の語彙が生まれた可能性も検討しなければなりません。奈良時代の日本語を見渡すと、kuso(糞)、kusasi(臭し)、kusaru(腐る)のような語が目に留まります。現代の日本語でkuso(糞)と言うと、まず大便が思い浮かびますが、奈良時代には大便以外にも広く用いられており、kuso(糞)はもともと汚いものを広く指していたと見られます。kusasi(臭し)とkusaru(腐る)に組み込まれているkusa-が古形を示しており、かつては*kusa(糞)、kusasi(臭し)、kusaru(腐る)であったと考えられます。ひょっとしたら、kusa(草)との混同を避けるために、*kusa(糞)よりkuso(糞)が好まれたのかもしれません。水の汚れを意味していたところから広く汚れ、汚いもの、汚物を意味するようになっていったという点で、*kusa(糞)はaka(垢)と似た歴史を辿ったと見られます。

奈良時代には、kusi(酒)という語もありました。*saka→sake(酒)に押し負けてしまったようです。このことも、水を意味するkus-のような語が存在したことを物語っています。

水を意味するkus-のような語が存在したことをさらに裏づける例として、kusi(串)とgusaʔ(ぐさっ)、gusagusa(ぐさぐさ)、gusari(ぐさり)も取り上げておきましょう。以下は、人間の幸せと繁栄—「栄ゆ(さかゆ)」と「栄ゆ(はゆ)」から考えるの記事で示した図です。

これは、水・水域を意味していた語がその横の盛り上がった土地、丘、山を意味するようになるパターンです。sakayu(栄ゆ)とsakaru(盛る)という語があったことから、sakaという語が上のような盛り上がった地形全体を意味しようとしていたことが窺えます。しかし、最終的に盛り上がった地形全体を意味することはできず、saka(坂)とsaki(先)という語が残りました。水・水域を意味していた語がその横の盛り上がった土地、丘、山を意味するようになるというのは超頻出パターンであり、盛り上がった土地、丘、山を意味することができなかった語がたくさんあるのです。

例えば、古代北ユーラシアで水を意味したpark-、pirk-、purk-、perk-、pork-(par-、pir-、pur-、per-、por-、pak-、pik-、puk-、pek-、pok-)のような語から来たɸara(腹)、ɸaru(張る)、ɸaru(腫る)という語がありました。おそらく、ɸari(針)も同源で、上の図のsaki(先)のところを意味していたと思われます。先を意味していた語が、先のとがった道具などを意味するようになるということです。

このパターンはよく見られ、例えば、古代北ユーラシアで水を意味したjark-、jirk-、jurk-、jerk-、jork-(jar-、jir-、jur-、jer-、jor-、jak-、jik-、juk-、jek-、jok-)のような語からyari(槍)が来ていると思われます。もしかしたら、ya(矢)も関係があるかもしれません。

さらに例を追加すると、古代北ユーラシアで水を意味したmark-、mirk-、murk-、merk-、mork-(mar-、mir-、mur-、mer-、mor-、mak-、mik-、muk-、mek-、mok-)のような語からmori(銛)が来ていると思われ、古代北ユーラシアで水を意味したpark-、pirk-、purk-、perk-、pork-(par-、pir-、pur-、per-、por-、pak-、pik-、puk-、pek-、pok-)のような語からɸoko(矛)が来ていると思われます。morimori(もりもり)やpokkori(ぽっこり)のような語があるのを見ても、やはりmori(銛)とɸoko(矛)がかつて盛り上がった地形を意味していたのは間違いなさそうです。

※mori(銛)は、魚に突き刺して捕らえるための漁具です。ɸoko(矛)は、yari(槍)と同じく、棒の先に刃が付いた武器です。ɸoko(矛)とyari(槍)をどのように区別するかということに関しては諸説ありますが、刃の形や刃と棒の接合の仕方によって区別するのが一般的です。

「水・水域」→「盛り上がった地形、丘、山」→「先」→「先のとがった道具」という意味変化は、長丁場ですが、珍しくなく、kusi(串)とgusaʔ(ぐさっ)、gusagusa(ぐさぐさ)、gusari(ぐさり)もこの道を辿ってきたと思われます。kusi(串)が並んだようなkusi(櫛)も同源でしょう。

上の過程を見れば明らかですが、途中で「盛り上がった地形、丘、山」を意味していたことがあったはずです。それを示唆するのが、kuse(曲)(推定古形*kusa)です。現代の日本語にyamanari(山なり)という語があるのでわかると思いますが、kuse(曲)は「盛り上がった地形、丘、山」を意味していたところからカーブを意味するようになったと見られます。まっすぐな状態を表す語がよい意味を帯び、曲がった状態を表す語が悪い意味を帯びるのはよくあることで、ここからkusemono(曲者)のような表現が生まれたと考えられます。kuse(癖)も、まっすぐあるべきものが曲がっていることを意味していて、それが抽象化し、正しいあるいは標準的なあり方からの逸脱を意味するようになっていったのでしょう。