「よい」と「悪い」について考える、善悪の起源はどこにあるのか

現代の日本語で、肯定的な評価と否定的な評価を表す語として最も一般的なのは、yoi(よい)とwarui(悪い)でしょう。yoi(よい)の古形はyosi(よし)で、warui(悪い)の古形はwarosi(悪し)です。しかし、奈良時代の時点では、yosi(よし)という語はありましたが、warosi(悪し)という語はありませんでした。その頃には、yosi(よし)はasi(悪し)と対になっていました。平安時代になって、warosi(悪し)が登場してきます。

古代中国語のljang(良)とak(惡)

奈良時代の日本語の形容詞の中で、yosi(よし)と asi(悪し)は特殊です。なにが特殊かというと、その語形です。takasi(高し)やoɸosi(大し、多し)のようなCVCVsi/VCVsiという形の形容詞はたくさんありますが、yosi(よし)と asi(悪し)のようなCVsi/Vsiという形の形容詞はほとんどないのです(Cは子音、Vは母音を表しています)。

この怪しいyosi(よし)と asi(悪し)は、古代中国語のljang(良)リアンとak(惡)から来たのではないかとお話ししました。古代中国語のljang(良)は、ある時代にrauとryauという音読みで日本語に取り入れられました。古代中国語の ak(惡)は、ある時代にu、o、akuという音読みで日本語に取り入れられました。

かつての日本語では、rが先頭に来るrauとryauのような発音は認められませんでした。rを取り除いたauとyauなら認められるかというと、これもaとuという母音が連続しているので認められませんでした。rauは認められず、auも認められず、oなら認められる、同様に、ryauは認められず、yauも認められず、yoなら認められる、そういう状況だったのです(古代中国語のlaw kjun(老君)ラウキウンと日本語のokina(翁)のような例を覚えているでしょうか)。

かつての日本語のこのような厳しい制約を考慮に入れたうえで、筆者は奈良時代の日本語のyosi(よし)のyoは古代中国語のljang(良)から来ている、奈良時代の日本語のasi(悪し)のaは古代中国語のak(惡)から来ていると推測しました。要するに、日本人は、古代中国語の「良」にrauとryauという読みが定められる前にyoと発音し、yosi(よし)という形容詞を作っていた、古代中国語の「惡」にu、o、akuという読みが定められる前にaと発音し、asi(悪し)という形容詞を作っていたということです。

奈良時代の日本語のyosi(よし)とasi(悪し)の語源を知るには、古代中国語のljang(良)とak(惡)の語源を知らなければなりません。

アイヌ語のpirkaがきっかけに

人間の言語に「よい」と「悪い」のような語はどのようにして生まれたのかという問題は漠然としていて、筆者はどこから考えればよいのか見当もつきませんでした。そんな筆者にきっかけを与えてくれたのは、太陽と火を意味する言葉、日本語の「日(ひ)」と「火(ひ)」から考えるの記事で言及したアイヌ語のpirkaという語でした。アイヌ語のpirkaは「よい、きれいだ、美しい」という意味です。

古代北ユーラシアに水を意味するpark-、pirk-、purk-、perk-、pork-(par-、pir-、pur-、per-、por-、pak-、pik-、puk-、pek-、pok-)のような語が存在し、この語が日本語と朝鮮語を含む東アジアの言語に大きな影響を与えていることから、筆者はアイヌ語のpirkaもそこから来たのではないかと考えました。語形のほうは、全く問題ありません。問題なのは、意味のほうです。「水」を意味していた語がどうしたら「よい、きれいだ、美しい」という意味になるのかということです。

前に、人間が水域の浅いところと深いところを区別し、浅いところに対して発する言葉と深いところに対して発する言葉ができたことをお話ししました(光の届く空間と届かない空間を参照)。この話は重要ですが、それと同じくらい重要な話があります。以下の図を見てください(写真は北海道のウェブサイトより引用)。

これは、水域の浅いところと深いところの話とは違います。水自体が澄んでいるか、濁っているかという話です。浅いところの水が右のような状態になっていることもあれば、浅いところの水が左のような状態になっていることもあります。北海道のサンプルが示しているように、場所だけでなく、季節や天候によっても変化します。

現代の私たちも水を利用していますが、販売されているミネラルウォーターを利用したり、水道水を利用したりしています。一定の品質基準を満たした水が供給されることが保証されているので、自分でこの水は飲めるだろうか、飲めないだろうかと判断することはあまりありません。しかし、古代人の場合には、事情が違います。自分で判断しなければならないのです。右のような水なら、飲むことも、料理をすることも、体を洗うことも、服を洗うこともできそうです。しかし、左のような水だと、飲むことも、料理をすることも、体を洗うことも、服を洗うこともできなさそうです。古代人は、右のような水と左のような水を区別し、右のような水に対してある言葉を発し、左のような水に対して別の言葉を発していたはずです。

古代北ユーラシアに水を意味するjark-、jirk-、jurk-、jerk-、jork-(jar-、jir-、jur-、jer-、jor-、jak-、jik-、juk-、jek-、jok-)のような語がありました。ここから日本語に、例えばyoko(横)という語が入っています。水・水域を意味することができなかった語がその横の部分を意味するようになるパターンです。しかし、日本語にはyoko(横)のほかにyogoru(汚る)/yogosu(汚す)という語もありました。このyogoru(汚る)/yogosu(汚す)のyogoはなんでしょうか。おそらく、このyogoは、水を意味することができなくなり、写真の左のような水に対して発せられる言葉になったと見られます。

このように、水を意味することができなくなった語が、左のような水に対して発せられる言葉になることがありますが、水を意味することができなくなった語が、右のような水に対して発せられる言葉になることもあります。否定的な評価の言葉になることもあれば、肯定的な評価の言葉になることもあるということです。先に挙げたアイヌ語のpirka(よい、きれい、美しい)は後者のパターンです。

「よい」と「悪い」のような語の根源には、やはり水、より正確には、写真の右のような水と左のような水があります。右のような水は人間の使用(飲んだり、料理をしたり、体を洗ったり、服を洗ったり)に適していますが、左のような水は人間の使用に適していません。目の前にある水が自分あるいは人間の使用に適しているか適していないかという観点から、「よい」と「悪い」のような語が生まれてくるのです。ちなみに、英語のgood(よい)は、ロシア語のgodnyj(適している)ゴードニイ(英語のsuitableに相当)などと同源です。

奈良時代の日本語のyosi(よし)とasi(悪し)の語源、すなわち古代中国語のljang(良)とak(惡)の語源を明らかにしましょう。まずak(惡)について説明し、その後でljang(良)について説明します。

古代中国語のak(惡)の語源

古代中国語のak(惡)も「水」から来たのでしょうか。どうやら、そのようです。もしそうだとすれば、東アジアに水を意味するak-のような語があったことになります。水を意味するas-のような語がasa(浅)になり、水を意味するak-のような語がaka(明)になったとすると、つじつまが合います。

古代中国語のak(惡)は「汚れた水」から来ていると見られますが、日本語のaka(垢)とaku(アク)(煮込み料理・鍋料理で浮かび上がってくる茶色い部分)も「汚れた水」から来ていると見られます。aka(垢)は、水の汚れを意味するところからその他の汚れを意味するようになっていったのでしょう。

aku(飽く)は、意味が完全に抽象的になっていますが、もともとmitu(満つ)と同じように水がせりあがっていっぱいになることを意味していたと思われます。

水・水域を意味していた語がその横の盛り上がった土地、山、高さを意味するようになる頻出パターンがありますが、agu(上ぐ)/agaru(上がる)もこのパターンでしょう。agamu(崇む)も無関係でないでしょう。

日本語の語彙は、東アジアに水を意味するak-のような語が存在したことを確かに示しています(北ユーラシア~東アジアの言語の歴史を考えると、ak-の前になんらかの子音が存在した可能性、特に消えやすいj(日本語のヤ行の子音)かwが存在した可能性が高いですが、ここでは深入りしません)。

古代中国語のljang(良)の語源

北ユーラシアの河川の名称について考察した時に、ヤナ川(Yana River)、レナ川(Lena River)、エニセイ川(Yenisey River)を取り上げました。日本では「レナ」と「エニセイ」という名前で知られていますが、現地での実際の発音は「リェナ」と「イェニセイ」に近いです。なぜYana RiverとYenisey Riverの間にあるのが、×Yena Riverではなく、Lena Riverなのでしょうか。 どうやら、水を意味するjak-、jank-、jag-、jang-、jan-のような語が以下のように変化することがあったようです。

※混乱しないように補足しておくと、水を意味するjark-、jirk-、jurk-、jerk-、jork-(jar-、jir-、jur-、jer-、jor-、jak-、jik-、juk-、jek-、jok-)のような語がおおもとにあります。西ユーラシアでも東ユーラシアでもnが挿入されることがよくあり、jak-という形からjak-、jank-、jag-、jang-、jan-のようなバリエーションが生じます。このバリエーションに、さらに上のような変化が起きます。

図の一段目は日本語のヤ行、二段目は日本語のリャ行、三段目は日本語のラ行に相当すると考えてください。ja(ヤ)と発音する時には、舌の先のほうが口の中の天井ぎりぎりまで近づきます。天井に触れてしまえば、tʃa(チャ)、dʒa(ヂャ)のような音になったり、nja(ニャ)のような音になったり、lja(リャ)のような音になったりします。ほんのわずかな差なので、このような発音変化は十分に起こりえます。

ただし、古代北ユーラシアで「jak-、jank-、jag-、jang-、jan-」から「ljak-、ljank-、ljag-、ljang-、ljan-」への変化があったとしても、さらに「ljak-、ljank-、ljag-、ljang-、ljan-」から「lak-、lank-、lag-、lang-、lan-」への変化があったとしても、そのことを日本語から捉えるのは絶望的です。日本語ではそもそも、語頭にLやRのような音が来ることがなかったからです。この語頭にLやRのような音が来ることがなかったというのは、朝鮮語、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語にも共通している特徴です。

しかし、中国語は違います。中国語には、そのような制約はありません。古代北ユーラシアで「jak-、jank-、jag-、jang-、jan-」から「ljak-、ljank-、ljag-、ljang-、ljan-」への変化、さらに「ljak-、ljank-、ljag-、ljang-、ljan-」から「lak-、lank-、lag-、lang-、lan-」への変化があったのなら、中国語にはその跡が認められるはずです。一例を挙げると、古代中国語には以下の語がありました。

yang(洋)は大きな海を意味していた語です。lang(浪)は大きな波を意味していた語です。どちらも「水」から来ていると考えられます。

冷たさを意味するljang(涼)リアンとlæng/leng(冷)ラン/レンという語もありました。背後には「氷」があり、さらにその背後には「水」があると考えられます。

nyij(二)ニイと並んで2を意味していたljang(兩)リアンも見逃せません(「兩」の俗字が「両」です)。水を意味していた語が1または2を意味するようになるからです(数詞の起源について考える、語られなかった大革命などを参照)。

中国語の語彙は、古代北ユーラシアで「jak-、jank-、jag-、jang-、jan-」から「ljak-、ljank-、ljag-、ljang-、ljan-」への変化、さらに「ljak-、ljank-、ljag-、ljang-、ljan-」から「lak-、lank-、lag-、lang-、lan-」への変化が起きていたことを示しています。そうして少しずつ違う形が生じ、それらが中国語になだれ込んだのです。

古代中国語のak(惡)が「汚れた水」から来ているのに対して、古代中国語のljang(良)は「きれいな水」から来ていると考えられます。mjæng(明)ミアンと同様の意味を持つljang(亮)リアンも関係があるでしょう。

ところで、日本語のwarosi(悪し)は・・・

yosi(よし)とasi(悪し)の語源が上の通りなら、warosi(悪し)はどうでしょうか。すでに述べたように、奈良時代の時点では、warosi(悪し)という語はまだ見られません。warosi(悪し)は、平安時代になって登場します。

奈良時代から日本語の本格的な記録が残っていますが、その頃に日本語の諸方言がどうなっていたかはほとんど窺えません。奈良時代の文献に見られず、平安時代の文献から現れるwarosi(悪し)は、日本語のどこかの方言にあったのでしょう。

やはり、waro(悪)も「水」から来ていると見られます。アイヌ語のwakka(水)(推定古形は*warkaあるいは*walka)と関係がありそうです。北九州に割子川(わりこがわ)という川があり、アイヌ語と同系の言語が九州にも存在したことが窺えます。そのことは、本ブログですでに挙げたwaku(湧く、沸く)、waku(分く)、waru(割る)、waki(脇)(水・水域を意味していた語が境または横を意味するようになるパターン)などの語彙からも窺えます。アイヌ語に近い言語が九州で支配的だったかどうかはともかく、存在したことは確実です。日本語ではwark-という形が不可能なので、rを落としてwak-とするか、kを落としてwar-とするか、母音を挿入してwarVk-としなければなりません。実際、どの変形も行っていたようです。

waka(若)とwara(藁)も、水・水域を意味することができず、その横の植物を意味しようとしたと見られる語です。このパターンは、midori(緑)のところでも出てきました(日本語が属していた語族を知るを参照)。kusa(草)とki(木)という一般的な語があるので、waka(若)は特に幼い植物、wara(藁)は特に干した植物を意味するようになったと見られます。

※私たちはイネという植物を食用にしていますが、この植物をまるごと食べるのではなく、種(専門用語では種子)の部分を食べています。もちろん、種を食べ尽くしたりはしません。種を食べ尽くしてしまったら、イネという植物自体が消滅してしまいます。種の部分を取り去った残りの部分(主に茎)はどうなるかというと、無駄にせず、乾燥させて、様々な目的に使用されてきました。これが藁です(写真はWikipediaより引用)。