結局のところ「膝(ひざ)」と「肘(ひじ)」の語源は同じだった(改訂版)

この記事は、以前に記した記事の改訂版です。

hiza(膝)とhizi(肘)の語源に関しては、筆者も大苦戦しましたが、ようやくすっきりとした見解に到達したので、それを以下に記しておきます。

hiza(膝)とhizi(肘)は、奈良時代にはɸiza(膝)とɸidi(肘)であり、さらにその前は*piza(膝)と*pidi(肘)であったと推定されます。この*piza(膝)と*pidi(肘)がどこから来たのか考えることになります。

筆者が苦戦した原因は、筆者が膝と肘をあくまでも「曲がるところ」と考えていたことにあります。簡単にはわからない「肘(ひじ)」の語源の記事で、英語のknee(膝)とelbow(肘)という呼び名が「曲がるところ」という見方に基づいていることを示しました。確かに、膝と肘は曲がるところです。しかし、knee(膝)とelbow(肘)と関係が深い語として、joint(関節)という語もあります。英語のjoint(関節)という呼び名は「つながっているところ」という見方に基づいています。この「つながっているところ」という見方に辿り着いたところで、ようやく活路が開けました。

日本語の*piza(膝)と*pidi(肘)の語源を解明するうえで、最終的な決め手になったのは、朝鮮語のmadiという語でした。朝鮮語のmadiは、節(ふし)や区切りを意味する語です。

朝鮮語のmadi自体は、「水・水域」→「区切る線」→「区切られた各領域」と変化してきた日本語のmati(町)と同源と考えられる語です(日本語が属していた語族を知るを参照)。ここで重要なのは、朝鮮語のmadiが人間の体の関節も意味しているということです。水を意味していた語が境(分かれ目、つなぎ目)を意味するようになり、境を意味していた語が関節を意味するようになるパターンを明確に示しています。

このパターンを頭に入れて、改めて日本語の*piza(膝)と*pidi(肘)を見ると、水のことをpat-、pit-、put-、pet-、pot-のように言っていた言語群が怪しいです。前回の記事で説明した[t]、[tʃ]、[ʃ]、[s]の変化が起きやすいことを考えると、pas-、pis-、pus-、pes-、pos-のような形も生じそうです。おそらく、*piza(膝)と*pidi(肘)だけでなく、*pida(ひだ)(布地や衣服に入っている折り目)や*pusi(節)も同じところから来ていると思われます。手のひらを見てください。五本の指に横線が入っています。手首のところも、肘のところも、同じようになっています。水を意味していた語が境を意味するようになり、境を意味していた語が関節を意味するようになるのです。

※奈良時代には、nagasi(長し)とɸisasi(久し)という語がありました。奈良時代の時点ですでに、ɸisasi(久し)はもっぱら時間に関して用いられていましたが、かつては、nagasi(長し)と同じように具体的な物の長さを意味することのできる語であったと思われます。古代人はこのように考えていたの記事で説明したように、nagasi(長し)はnagaru(流る)/nagasu(流す)とともに「水」から来ていると考えられます。同じように、ɸisasi(久し)も「水」から来ていると考えられます。水・水域を意味していた語がその横の盛り上がった土地、山、高さを意味するようになり、この高さから長さという意味が生まれてくるのです。高さから上方向という制限を外せば、長さになります。インド・ヨーロッパ語族の古英語berg/beorg(山)、ヒッタイト語parkuš(高い)、トカラ語pärkare(長い)などが好例です。奈良時代の日本語のɸisasi(久し)は、水を意味するpisaのような語が存在したことを物語っています。pita、pitʃa、piʃa、pisaのような形が並存していたのでしょう。

日本語のtekubi(手首)、asikubi(足首)、kubi(首)のkubiも気になります。朝鮮語のsonmok(手首)、palmok(足首)、mok(首)のmokも気になります。日本語のkubiも、朝鮮語のmokも、つながっているところを意味していたと見られます。日本語のkubiのおおもとには、水を意味したkalm-、kilm-、kulm-、kelm-、kolm-(kal-、kil-、kul-、kel-、kol-、kam-、kim-、kum-、kem-、kom-)のような語があり(mの部分はbになったり、pになったり、wになったり、vになったりします)、朝鮮語のmokのおおもとには、水を意味したmark-、mirk-、murk-、merk-、mork-(mar-、mir-、mur-、mer-、mor-、mak-、mik-、muk-、mek-、mok-)のような語がありそうです。日本語のkubire(くびれ)は、首のように細くなっていることが意識されて後からできた語のようです。tikubi(乳首)のkubiは、kubiが頭部・頭・先を意味するようになったものです。

ひょっとしたら、kubo(窪)も関係があるかもしれません。この語は、奈良時代には「凹」と書かれたり、「窪」と書かれたり、「下」と書かれたりしていました。低いところを指す語だったようです。下(した)、下(しも)、下(もと)の比較の記事で詳しく解説した、水を意味していた語が下を意味するようになるパターンかもしれません。mikubiru(見くびる)のkubiにも下という意味が感じられます。見下ろす、見下げる、見下すと同じ感じです。

※地味ではありますが、水を意味していた語が水蒸気、湯気、霧、雲などを意味するようになるパターンも忘れてはなりません。kumo(雲)が上のkalm-、kilm-、kulm-、kelm-、kolm-(kal-、kil-、kul-、kel-、kol-、kam-、kim-、kum-、kem-、kom-)のような語から来ているのと同様に、mokumoku(もくもく)のmokuは上のmark-、mirk-、murk-、merk-、mork-(mar-、mir-、mur-、mer-、mor-、mak-、mik-、muk-、mek-、mok-)のような語から来ていると見られます。煙は水蒸気、湯気、霧、雲とは異質ですが、外見や動きが似ているので、煙にもmokumoku(もくもく)が使われるようになったのでしょう。

 

補説

kurubusi(くるぶし)の語源

節(ふし)の話をしたので、ついでにkurubusi(くるぶし)の語源も明らかにしておきましょう。kurubusi(くるぶし)は、足首のところのでっぱりで、内くるぶしと外くるぶしがあります。

皆さんも木材が以下のようになっているのを見たことがあるでしょう(写真はイエモン様のウェブサイトより引用)。

まるい部分は節(ふし)と呼ばれます。なぜここが節と呼ばれるかというと、ここから枝が出ていたからです。つまり、つなぎの部分だったのです。

現代の日本語に「思い当たる節がある」という言い方があるので、節が点、箇所、ところのような意味を持つこともあったのでしょう。

足首のところのでっぱりは、木の節のように見えることから、kurubusi(くるぶし)と呼ばれるようになりました。kuru-の部分はまるを意味しています(これについては、kurukuru(くるくる)やkuruma(車)について記したくりくりした目の記事を参照してください)。