TとSの間の発音変化、日本語の隠れた仲間たち

前回の記事では、計量に用いられたmasu(升、枡)の語源は「水」ではないかという話をしました。日本語は水のことをmat-、mit-、mut-、met-、mot-のように言う言語群に属していたと考えられますが、このtの部分がsになることがあったようです。

例えば、日本語で鳥が羽ばたくことをbatabata(ばたばた)と言ったり、basabasa(ばさばさ)と言ったりします。また、水がはねることをbatyabatya(ばちゃばちゃ)と言ったり、basyabasya(ばしゃばしゃ)と言ったりします。ɸa(端)、ɸata(端)、×ɸati(端)ではなく、ɸa(端)、ɸata(端)、ɸasi(端)になっていたのも、同様の事情によるものかもしれません。日本語および東アジア・東南アジアのその他の言語を見る限り、以下の音の間で発音が変化することがよくあったようです。

一番左はタ・ティ・トゥ・テ・トの類、二番目はチャ・チ・チュ・チェ・チョの類、三番目はシャ・シ・シュ・シェ・ショの類、四番目はサ・スィ・ス・セ・ソの類です。

※正確に言うと、東アジア・東南アジアでは、[tʃ]と[ʃ]ではなく、[tɕ]と[ɕ]であることが多いですが、これらはよく似た音であり、ここでは英語の学習などで見慣れた[tʃ]と[ʃ]を示してあります。[tɕ]は[tʃ]とどう違うのか、[ɕ]は[ʃ]とどう違うのかということについては、モンゴル語や満州語からのヒントの記事の補説を参照してください。

東アジア・東南アジアでは、[t]、[tʃ]、[ʃ]、[s]のほかに、[ts]という子音もよく見られます。これはツァ・ツィ・ツ・ツェ・ツォの類です。[t]と[s]の間に、[tʃ]、[ʃ]、[ts]が介在すると、[t]から[s]への変化、あるいは[s]から[t]への変化は起きやすくなります。実際、このようなことが東アジア・東南アジアで広く起きていたようです。

水を意味するmat-、mit-、mut-、met-、mot-のような語は、tの部分がsになれば、mas-、mis-、mus-、mes-、mos-のような語になります。水のことをmas-、mis-、mus-、mes-、mos-のように言う言語は本当にあったのでしょうか。やはり、あったようです。

前回の記事のmasu(升、枡)に続いて、masu(増す、益す)に注目しましょう。日本語の動詞のmasuには、「増」と「益」という漢字があてられてきました。古代中国語のtsong(增)ツォンもjiek(益)イエクも増えることを意味しており、「増」と「益」という漢字があてられたのは適切です。しかし、「増」という漢字が伝えるイメージと「益」という漢字が伝えるイメージは異なります。「増」という漢字は、土が盛られて大きな山ができることを表しています。「益」という漢字は、容器に水が注がれ、水がせりあがって溢れることを表しています。

masu(増す、益す)の語源が「水」であることは間違いありません。そのことは、前回の記事のmasu(升、枡)からも窺えるし、魚のmasu(マス)からも窺えます。sake(サケ)とmasu(マス)は類似の魚を指しますが、sake(サケ)が「水」から来ているのと同様に、masu(マス)も「水」から来ていると見られます。sake(サケ)やmasu(マス)のような語は、水・水域を意味することができず、魚一般を意味することもできず、特定の魚を意味するようになったと考えられる語です。

話が少し複雑になりますが、奈良時代には、masuという動詞とmasaruという動詞がありました。現代の日本語では、masuは「増える」の類義語で、masaruは「勝つ」の類義語になっていますが、奈良時代はそうはなっていませんでした。奈良時代の時点では、masuは「増える」という意味と「勝つ」という意味を持っていました。全く同じように、masaruも「増える」という意味と「勝つ」という意味を持っていました。これは一体どういうことでしょうか。おそらく、水のことをmasaと言ったり、masuと言ったりしていたと思われます。そして、そこから作られた動詞は、水がせりあがる段階も、水が溢れる段階も意味していたと思われます。特に、水がせりあがる段階が「増える」という意味に、水が溢れる段階が「超える、上を行く、上回る」という意味になったのでしょう。こう考えると、masuとmasaruという動詞が「増える」という意味と「勝つ」という意味を持っていたことが納得できます。「AよりBのほうがましだ」という表現に出てくるmasi(まし)もここから来ています。

増えるというのは、体積が大きくなるということでもあり、大きさの話にもなっていきます。奈良時代には、強くて勇ましい男のことをmasuɸitoと言ったり、masurawoと言ったりしていましたが、このmasu-とmasura-の部分ももともと大きいことを意味していたのでしょう。

現代の日本語に、子どもが年齢不相応に大人びることを意味するmaseru(ませる)という語がありますが、これも最初は普通に大きくなることを意味していたのでしょう。

masaまたはmasuが水・水域を意味していたことを窺わせる例はまだまだあります。

例えば、mazamaza(まざまざ)です。はっきりしていること、鮮明なこと、明瞭なことを意味します。水面を見下ろしてください。その水が濁っていたら、中がよく見えません。しかし、その水が澄んでいたら、中がはっきり見えます。mazamaza(まざまざ)はここから生まれた語なのです。

mazu(混ず)は明らかでしょう。水になにかを入れることを意味していた語です。

例としてmazamaza(まざまざ)を挙げましたが、mazamaza(まざまざ)よりもっとわかりにくいのがmasa(正)です。ここでmasa(正)が出てくるのは、意外かもしれません。次は、非常に重要なmasa(正)の話をします。この話には、人間の言語において「よい」と「悪い」のような語はどのようにして生まれたのかという根本的な問題が関わってきます。