古代人の苦い経験

「よい」と「悪い」について考える、善悪の起源はどこにあるのかの記事で示した図(北海道のウェブサイトより引用)をもう一度示します。

古代の人々が、自分たちの使用に適する澄んだ水と自分たちの使用に適さない濁った水を区別し、前者の水に発せられる言葉と後者の水に発せられる言葉ができたことをお話ししました。

写真の右の水に「きれい」のような語が発せられ、左の水に「汚い」のような語が発せられたことは理解できるでしょう。しかし、水は観賞物ではありません。人類はこれを飲んできたのです。

右の水と左の水は外見が違いますが、違うのは外見だけでしょうか。右の水と左の水を飲んだら、どんな味がするでしょうか。古代人は、現代人と違って、常に右のような水が供給されるとは限らない世界に住んでいました。喉が渇いた、目の前に水がある、しかし濁っている、なんとか飲めるか、そんな状況もあったかもしれません。日本語のnigo(濁)とniga(苦)はなんとも示唆的です。実際に濁った水を飲んで、niga(苦)と言っていたのでしょうか。その可能性は高いです。niga(苦)に似た語として、sibu(渋)がありますが、この語も怪しいです。前回の記事で挙げたsima(島)、siba(芝)、siba(数)、siɸo(潮、塩)(推定古形*sipo)などからして、日本語のそばに水のことをsim-、sib-、sip-のように言う言語群があったことは確実であり、sibu(渋)もここから来ていると見られます(古代中国語のsrip(澀)シプもなんらかの関係がありそうです。古代中国語の「澀」は日本語では「渋」と書かれています)。やはり、飲用に適さない水を飲んで、niga(苦)と言ったり、sibu(渋)と言ったりしていたと思われます。

まずい水を飲んだ時に出てくる言葉がniga(苦)とsibu(渋)なら、おいしい水を飲んだ時に出てくる言葉はなんだったのでしょうか。

話がちょっと複雑になりますが、奈良時代にはyosi(よし)とumasi(うまし)という語がありました。この頃のumasi(うまし)は、yosi(よし)と同じように、広く肯定的評価を表すことのできる語でした。「よい」と「悪い」について考える、善悪の起源はどこにあるのかの記事でyosi(よし)が「水」から来たことを説明しましたが、umasi(うまし)も「水」から来たと見られ、umi(海)やumu(膿む)と同源と考えられます(もっと大きな枠組みで言えば、水のことをam-、ab-、ap-、um-、ub-、up-、om-、ob-、op-のように言う言語群から来たと考えられます)。

umasi(うまし)は味に関する肯定的評価を表すことが多くなっていきます(amasi(甘し)は、umasi(うまし)より後に現れ、umasi(うまし)の異形と見られます。amasi(甘し)も、umasi(うまし)と同様に、「おいしい」という意味で用いられることがありました)。ここで重要なのは、yosi(よし)が広く肯定的評価を表す語であり続けたのに対し、umasi(うまし)は特に味に関する肯定的評価を表す語になっていったということです(現代のumai(うまい)では、味がよいという意味と、上手である・巧みであるという意味が主な意味になっています)。yosi(よし)のような万能語がいくつも並存するとは考えにくいので、umasi(うまし)のように広く肯定的評価を表した語がある限定された肯定的評価を表すようになっていくことは多かったと思われます。

いよいよmasa(正)の話へ

TとSの間の発音変化、日本語の隠れた仲間たちの記事で棚上げしたmasa(正)の話を続けましょう。

日本語は、水のことをmat-、mit-、mut-、met-、mot-のように言う言語群に属していたと考えられますが、[t]が[tʃ]、[ʃ]、[ts]などを介して[s]になることがあり、mas-、mis-、mus-、mes-、mos-のような形もあったことを示しました。水を意味するmas-のような語から来たことがわかりやすいmasu(升、枡)、masu(増す、益す)、mazu(混ず)などに加えて、水を意味するmas-のような語から来たことがわかりにくいmazamaza(まざまざ)という語も挙げました。

はっきりしていること、鮮明なこと、明瞭なことを意味するmazamaza(まざまざ)は、澄んだ水から来たと考えられるものです。つまり、冒頭の写真の右のような水を見てmazamaza(まざまざ)と言っていたということです。そのことを裏づけるのが、奈良時代のmasa(正)です。masaは、「正」と書かれることがほとんどでしたが、「雅」と書かれることもありました。この点は注目に値します。古代中国語のtsyeng(正)チエンは、正しいことを意味した語で、古代中国語のngæ(雅)ンガは、美しいこと、優美であること、みやびであることを意味した語です。こうなると、奈良時代のmasaはもともと、正しいという限定された意味ではなく、もっと広い意味を持っていたのではないかと考えたくなります。

yosi(よし)のような万能語があれば、それで大抵の場合は済んでしまうので、その他の語は意味・用法が特殊化していくことが予想されます。上に記したumasi(うまし)は、その一例です。masasi(正し)も、そうだったのかもしれません。masaはもともと冒頭の写真の右のような水に対して発せられ、そこから広く肯定的評価を表す語になっていたが、yosi(よし)に圧迫され、意味・用法がせばまり、奈良時代のmasa(正、雅)になったと考えると、mazamaza(まざまざ)ともども、しっくりきます。

水を意味するmiduが時にmiという形になっていたことを考えると、masaが時にmaという形になることもあったかもしれません。masa(正)とma(真)は同源である可能性があります。「マジかよ」のmazi(マジ)も怪しいです。誤りではない、偽りではないという意味が通っています。

 

補説

yosi(よし)とisi(いし)

話がさらに複雑になりますが、yosi(よし)のほかに、isi(いし)という語もありました。isi(いし)は、意味が全体的にyosi(よし)に似ており、yosi(よし)の異形である可能性が高いです。現代の日本語で、yoi(よい)がii(いい)になっていることを考えても、無理がありません。ただし、yosi(よし)はク活用で、isi(いし)はシク活用でした。

ク活用では、終止形の「し」が別の音になり、シク活用では、終止形の「し」の後に別の音が続きます。どちらも、よく見られた活用です。umasi(うまし)などは、ク活用もシク活用も見せました。yosi(よし)はク活用で、isi(いし)はシク活用でしたが、意味が全面的に似ていること、そしてCVsi/Vsiという形の形容詞がごくわずかしかなかったことを考えると、やはりisi(いし)はyosi(よし)の異形である可能性が高いです。

isi(いし)は、丁寧さを示すo(お)を付けられ、現代のoisii(おいしい)になりました(シク活用の形容詞は、uresi(うれし)→uresii(うれしい)、kanasi(悲し)→kanasii(悲しい)のように変化しました)。