漢字をめぐる難問、「達」という漢字をどう読むか

高句麗語の「谷」は前回の記事で見たので、今度は高句麗語の「山」を見てみましょう。

高句麗語の「山」

高句麗語の「達」という語が記録されており、山を意味する語であると中国語で説明されています。

高句麗語の「達」・・・山を意味する

Beckwith氏は高句麗語の「達」の発音を*tarと推測しています(Beckwith 2004)。ここに大きな問題があります。

古代中国語のdat(達)は、日本語にdatiとtatuという音読みで取り入れられました。日本語ではtという子音で終わることができないので、そのうしろにiとuという母音が補われていますが、古代中国語のdat(達)の末子音tは保存されています。

古代中国語のdat(達)は、中国の標準語では末子音tが消えましたが、広東語ではdaatタ(トゥ)、ベトナム語ではđạtダ(トゥ)になっています。

なぜBeckwith氏は高句麗語の「達」の発音を*tatではなく、*tarと推測したのでしょうか。実は、朝鮮語で「達」という字をtalと読んでおり、昔はtarと読んでいたのです。要するに、Beckwith氏は高句麗では昔の朝鮮語と同じように「達」という字をtarと読んでいただろうと推測しているわけです。

ここは慎重にならなければならない箇所です。高句麗は668年に消滅しました。昔の朝鮮語では「達」という字をtarと読んでいたと述べましたが、tarと読んでいたことが確実にわかるのは、ハングル(朝鮮語の文字体系)が作られた15世紀半ば以降です。朝鮮語では15世紀半ばよりいくらか前から「達」という字をtarと読んでいたかもしれません。しかしそれでも、668年以前に存在した高句麗で「達」という字をtarと読んでいたとは限りません。

※大半の読者の方は大丈夫だと思いますが、朝鮮語と高句麗語を混同しないでください。かつて朝鮮半島に新羅語と百済語と高句麗語という言語が存在し、新羅語は朝鮮語になり、百済語と高句麗語は消滅しました。

ちなみに、高句麗語の「達」は高いことも意味すると中国語で説明されています。「達」と書き表されているケースだけでなく、「達乙」と書き表されているケースもあります。

高句麗語の「達、達乙」・・・高いことを意味する。

Beckwith氏は、山を意味する高句麗語の「達」と高いことを意味する高句麗語の「達、達乙」はtarのような語を書き表したものではないかという考えです。筆者は、山を意味する高句麗語の「達」と高いことを意味する高句麗語の「達、達乙」はtatのような語を書き表したものではないかという考えです。ただし、筆者はBeckwith氏の考えを完全に無視することはできないとも考えています。これについては後で述べます。

まず、山を意味する高句麗語の「達」と高いことを意味する高句麗語の「達、達乙」はtatのような語を書き表したものであると仮定して、話を進めてみましょう。読み方がどうであれ、高句麗語の「達、達乙」が山を意味したり、高いことを意味したりしていたことは確かです。お決まりのパターンですが、高句麗語の「達、達乙」は、水を意味していた語がその横の盛り上がった土地、丘、山、高さを意味するようになったものでしょう。

水を意味するtatのような語があって、そのtatのような語が陸に上がろうとする、本当にそんな展開があったかどうか検証してみましょう。まず注目したいのが、日本語のtatu(断つ)です。そしてもう一つ注目したいのが、日本語のtati(太刀)です。tatu(断つ)はkiru(切る)の類義語で、tati(太刀)はkatana(刀)とturugi(剣)の類義語です。

水を意味するtat-のような語が陸に上がろうとしているところを想像してください。水を意味するtat-のような語は、端を意味するようになったり、境を意味するようになったりするでしょう。境を意味する語から切ることを意味する語が生まれるパターンを思い出してください。端を意味する語から刃・刃物を意味する語が生まれるパターンを思い出してください。境を意味するtat-のような語から生まれたのがtatu(断つ)で、端を意味するtat-のような語から生まれたのがtati(太刀)と考えられます。

水を意味するtat-のような語が存在したことを示す日本語は、tatu(断つ)とtati(太刀)だけではありません。奈良時代には、(水が)いっぱいに満ちることあるいは(水を)いっぱいに満たすことを意味するtataɸu(湛ふ)という動詞がありました。現代でも、「水を湛える」と言います。意外かもしれませんが、tataru(祟る)も関係があります。abaru(暴る)、ikaru(怒る)、midaru(乱る)などが水から来ていたことを思い出してください。tataru(祟る)もこのパターンで、水・水域が荒れ狂うことを意味していた語が、神・霊が怒ることを意味するようになったと考えられます。

上のtati(太刀)が端を意味していたという話と関連しますが、以下のような構図もあったでしょう。

このようにしてtatiに「2」という意味が生じ、watasitati(私たち)やkimitati(君たち)のtati(たち)になったと見られます。このtati(たち)はよく「達」と書かれますが、これは単なる当て字です。中国語の「達」に複数という意味はありません。

日本語が属していた語族を知るの記事で、水を意味していた語が横を意味するようになり、横を意味していた語が手・腕を意味するようになり、手・腕を意味していた語が打つことを意味するようになるパターンを示しました。utu(打つ)の類義語であるtataku(叩く)とɸataku(叩く)の語源もこのパターンではないかと思われます。おおもとにあるのは、水を意味するtataのような語と水を意味するɸata(あるいはpata)のような語です(水のことをmat-、mit-、mut-、met-、mot-のように言っていた言語群と、水のことをpat-、pit-、put-、pet-、pot-のように言っていた言語群は、類縁関係にあります)。「水→横→手・腕→打つ」という意味変化はかなり一般的なようです。

日本語の語彙は、水を意味するtat-のような語が存在したことをよく示しています。水を意味するtat-のような語が陸に上がって、盛り上がった土地、丘、山、高さを意味することもあったのではないでしょうか。高句麗語で山と高いことを意味した「達、達乙」は無関係なのでしょうか。

長くなるので、ここでいったん切ります。

 

参考文献

Beckwith C. I. 2004. Koguryo: The Language of Japan’s Continental Relatives. Brill Academic Publishers.