日本の歴史は縄文時代からではなく旧石器時代から考えなければならない

以前に、古代北ユーラシアの人々のDNAについてお話ししたことがありました(一貫性を示す古代北ユーラシアの人々のDNAを参照)。その時はミトコンドリアDNAとY染色体DNAの話しかしませんでしたが、さらにDNA全体が調べられ、古代の様子が一層明らかになってきました(図はMassilani 2020より引用)。

今のところ、東アジアの歴史を考えるうえで特に重要なのは、以下の6名です。

Ust’-Ishim 45000年前頃のロシアのウスチイシムの男性
Tianyuan 40000年前頃の中国の田園洞遺跡の男性
Salkhit 34000年前頃のモンゴルのサルヒトの女性
Yana 31000年前頃のロシアのやヤナ遺跡の男性2名
Mal’ta 24000年前頃のロシアのマリタの男性

Ust’-Ishimの男性、Yanaの男性2名、Mal’taの男性についてはすでに、ミトコンドリアDNAとY染色体DNAのデータに基づいて、中東から中央アジアに向かい、中央アジアから北ユーラシアに拡散していった人々だろうと述べました。DNA全体を調べたMassilani氏らの研究(Massilani 2020)でも、そのことが確かめられました。対照的に、Tianyuanの男性とSalkhitの女性は、中東から東南アジアに向かい、東南アジアから北上してきた人々であることが明らかになりました。

Salkhitの女性のDNAの75%は東南アジアルート(南方ルート)から来ており、25%は中央アジアルート(北方ルート)から来ていると分析されています(Massilani 2020)。やはり、東南アジアルートを通ってやって来た人々と中央アジアルートを通ってやって来た人々は、非常に古くから混ざり合っていたのです。東アジアの歴史の初期の頃から、そのような混ざり合いが起きていたのです。これはとても重要なことです。これで考古学的証拠と生物学的証拠が完全に嚙み合いました(考古学的証拠については、4万年前の東アジアを参照)。

Yanaの男性2名は31000年前頃にユーラシア大陸の最北部にいた人たちで、ともにミトコンドリアDNAがU系統、Y染色体DNAがP系統であることがわかっていました(Sikora 2019)。このミトコンドリアDNAのU系統とY染色体DNAのP系統は、中東→中央アジア→北ユーラシアと進出したものです。しかし、男性2名のDNA全体を調べると、その30%以上が東南アジアルートから来ています(Massilani 2020)。ミトコンドリアDNAとY染色体DNAは重要ですが、それだけでは見えない部分があり、その見えない部分がかなり大きい場合もあることをはっきりと示しています。

日本人の起源について論じる時や日本語の起源について論じる時に、よく「北方」と「南方」という言葉が使われてきました。しかし、筆者は思っていました。その「北方」とはなんなのか、「南方」とはなんなのかと。よくわかっていない「北方」と「南方」によって、日本人の起源や日本語の起源を明らかにできるのかと。

「北方」と「南方」が曖昧模糊としているのも問題ですが、もう一つ問題なのは、旧石器時代への関心が低いことです。弥生時代と縄文時代に比べて、旧石器時代はなかなか注目されません。確かに、旧石器時代は手がかりが少ないので、無理もないかもしれません。

日本は、旧石器時代→縄文時代→弥生時代と変遷しました。しかし、旧石器時代から縄文時代への変化と、縄文時代から弥生時代への変化は、かなり異質なようです。縄文時代から弥生時代への変化では、(水田)稲作が行われるようになったり、金属器(青銅器、鉄器)が使われるようになったりしました。これは、大陸からやって来た人々が引き起こした変化です。旧石器時代から縄文時代への変化は、どうでしょうか。旧石器時代から縄文時代への変化では、土器が作られるようになったり、定住が始まったりしました。

東アジアでは農耕が始まるずっと前から土器が作られており、どこで土器が作られ始めたのか盛んに研究されてきました。考古学調査が進み、年代測定技術が発達するにつれて、不思議な様相が浮かび上がってきました(図はKuzmin 2015より引用)。

14000~18000年前頃から、中国南部、日本、アムール川流域、バイカル湖周辺に土器が現れます(中国南部にもっと古い報告例がありますが、広く認められていません(Wu 2012、Kuzmin 2013))。しかし、これらの地域の間には同時代の土器が全然見られず、土器が一つの地域で生まれて残りの地域に伝わったという説明は困難な状況です。朝鮮半島にいたっては、8000年前頃になるまで土器が現れません。

日本で最古の土器は、青森県の大平山元遺跡(おおだいやまもといせき)で見つかっていますが、これも、他の地域から伝わってきたという説明は困難です。日本最古の土器は、縄文(縄を押しつけてつける模様)がなく、無文です。

一般に、ある地域に新しい現象または状況が見られ始めた場合、以下のパターンが考えられます。

(1)よそから大勢の人々が入って来て、変化が生じた。
(2)よそから少数の人々が入って来て、変化が生じた。
(3)よそから人は入って来ないで、純粋にその地域の内部で変化が生じた。

現状では、日本の土器作りは(3)と考えるしかありません。日本の場合には、土器よりいくらか遅れて定住が始まりました。日本最古の土器は東北で見つかっていますが、定住は九州から広がっていきました(Pearson 2006)。土器と定住は縄文時代の重要な特徴ですが、これらはいっしょに発生していっしょに広がっていったわけではないようです。いずれにせよ、日本の旧石器時代から縄文時代への変化は、よそから人々が全く入って来ないあるいはほとんど入って来ない変化であったと見られます。そうなると、縄文時代の人々については考えるが旧石器時代の人々については考えないというのは、なんともおかしなことです。連続しているわけですから。

ただ、上の地図が示しているように、これほど近い時期に東アジアの四つの地域で土器が現れたのはなぜかという疑問は残ります。単なる偶然として片づけられるようなものでもないと思われます。Kuzmin氏などは土器が生まれたのは食材の調理と保存のためではないかと述べていますが、その可能性は高いでしょう(Kuzmin 2013)。実際、日本の縄文時代草創期(縄文時代の最も古い時期)の土器の付着物が調べられ、土器が特に淡水・海洋生物の調理に使われていたことが明らかになっています(Craig 2013)。

筆者は、マンモスのような大型の動物が獲れなくなってきて、人々の注意・関心が陸上のその他の動物、植物、魚介類などの様々な対象に強く向かうようになったことが大きかったのではないかと考えています。様々な対象の中には、そのまま食べるのに不向きなものも多かったでしょう。東アジアの主食になったアワとイネにしたって、そのまま食べるのに向いていません。土器の始まり、定住の始まり、農耕の始まりについては膨大な議論がありますが、いずれも究極的には下線部の事情と無関係でないと思われます(ちなみに、日本では土器、定住、農耕の順に見られましたが、必ずその順で見られるとは限りません(Gibbs 2016))。

日本人の起源や日本語の起源を知りたければ、日本とその周辺地域を含む旧石器時代からきちんと考えなければなりません。筆者がこのブログでやっていることを見ればわかると思いますが、日本語の起源というのは、日本語はどこから来たのかというより、日本語の一語一語はどこから来たのかという問題です。日本語の一語一語がどこから来たのか明らかにするためには、人類の歴史がどのように展開してきたのかよく知る必要があります。

 

参考文献

Craig O. E. et al. 2013. Earliest evidence for the use of pottery. Nature 496(7445): 351-354.

Gibbs K. et al. 2016. A comparative perspective on the ‘western’ and ‘eastern’ Neolithics of Eurasia: Ceramics; agriculture and sedentism. Quaternary International 419: 27-35.

Kuzmin Y. V. 2013. Origin of Old World pottery as viewed from the early 2010s: When, where and why? World Archaeology 45(4): 539-556.

Kuzmin Y. V. 2015. The origins of pottery in East Asia: Updated analysis (the 2015 state-of-the-art). Documenta Praehistorica 42: 1-11.

Massilani D. et al. 2020. Denisovan ancestry and population history of early East Asians. Science 370(6516): 579-583.

Pearson R. 2006. Jomon hot spot: Increasing sedentism in south-western Japan in the Incipient Jomon (14,000–9250 cal. BC) and Earliest Jomon (9250–5300 cal. BC) periods. World Archaeology 38(2): 239-258.

Sikora M. et al. 2019. The population history of northeastern Siberia since the Pleistocene. Nature 570(7760): 182-188.

Wu X. et al. 2012. Early pottery at 20,000 years ago in Xianrendong Cave, China. Science 336(6089): 1696-1700.

誰もいないはずのチベット高原に誰かが・・・

現生人類のDNAには、ネアンデルタール人由来の部分と、デニソワ人由来の部分が見られます。しかし、ネアンデルタール人由来の部分はアフリカの外の人々に広く見られますが、デニソワ人由来の部分はもっと分布が限られています。デニソワ人由来の部分が見られるのは、東ユーラシア、オセアニア、南北アメリカの人々です。要するに、アフリカを出て、東にどんどん進んでいった人々に見られるのです。

ロシアのアルタイ地方のデニソワ洞窟でデニソワ人が発見された後、デニソワ人のDNAが調べられました。そして、デニソワ人のDNAが現生人類に入っているかどうかが注目されました。ここで真っ先に浮かび上がってきたのが、なんとパプアニューギニアとオーストラリア(アボリジニ)の人々でした(Reich 2010、2011)。しかし、パプアニューギニアとオーストラリアの人々にデニソワ人のDNAが顕著に認められるというのは、ちょっと不可解な話でした。デニソワ人が発見されたデニソワ洞窟はシベリアにあるからです(地図はThe Guardian様のウェブサイトより引用)。

※Denisova Cave(デニソワ洞窟)は、カザフスタン、ロシア、モンゴルが集まっているあたりにあります。Baishiya Karst Cave(白石崖鍾乳洞)については後述します。

その後の研究によって、パプアニューギニアとオーストラリアの人々ほどではないが、東ユーラシア(東南アジア、東アジア、シベリア)と南北アメリカ(インディアン)の人々にも、デニソワ人のDNAがわずかに認められることがわかりました(デニソワ人のDNAは、パプアニューギニアとオーストラリアの人々では5%程度、東ユーラシアと南北アメリカの人々では0.2%程度です)(Prüfer 2014、Qin 2015)。

どうやら、デニソワ人は広い範囲に分布していたようです。デニソワ人が広い範囲に分布していたのであれば、シベリアでデニソワ人の骨が見つかったことと、パプアニューギニアとオーストラリアの人々のDNAにデニソワ人由来の部分が顕著に認められることは、矛盾しません。デニソワ人は北のほうにもいたし、南のほうにもいたということです。

しかしながら、デニソワ人が広く分布しているところに現生人類が流れ込んだとなると、複雑な展開が予想されます。デニソワ人と現生人類の接触は複数の地域で起きたかもしれません。そのような可能性がS. R. Browning氏らによって提起されました(Browning 2018)。Browning氏らは、パプアニューギニアの人々のDNAに見られるデニソワ人由来の部分と、東アジアの人々(中国人および日本人)のDNAに見られるデニソワ人由来の部分を比較し、以下のような見解を示しています。

・パプアニューギニアの人々のDNAに見られるデニソワ人由来の部分は、ロシアのアルタイ地方のデニソワ洞窟で見つかったデニソワ人と遠い関係にあるデニソワ人集団から入ったものである。

・東アジアの人々のDNAに見られるデニソワ人由来の部分は、ロシアのアルタイ地方のデニソワ洞窟で見つかったデニソワ人と遠い関係にあるデニソワ人集団から入ったものと、ロシアのアルタイ地方のデニソワ洞窟で見つかったデニソワ人と近い関係にあるデニソワ人集団から入ったものが混在している。

G. S. Jacob氏らも似た見解を示していますが、もっと複雑です(Jacob 2019)。Browning氏らは、「パプアニューギニアの人々と東アジアの人々にDNAを与えたデニソワ人集団」と「東アジアの人々だけにDNAを与えたデニソワ人集団」という二種類のデニソワ人集団によって説明しようとしていますが、Jacob氏らは、「パプアニューギニアの人々と東アジアの人々にDNAを与えたデニソワ人集団」と「東アジアの人々だけにDNAを与えたデニソワ人集団」と「パプアニューギニアの人々だけにDNAを与えたデニソワ人集団」という三種類のデニソワ人集団によって説明しようとしています。

Jacob氏らは、各地に存在したデニソワ人集団は35万年前頃から枝分かれし始めていたと推定しています(Jacob 2019)。互いに大きく隔たった複数のデニソワ人集団が、現生人類にDNAを与えたことは間違いないようです。

2008年にロシアのアルタイ地方のデニソワ洞窟で最初のデニソワ人が発見され、その後もデニソワ洞窟でデニソワ人の発見が相次ぎました(Reich 2010、Sawyer 2015、Slon 2017b)。そしてついに、デニソワ洞窟以外の場所でデニソワ人が発見されました(Chen 2019)。その発見場所が、冒頭の地図に示されたBaishiya Karst Cave(白石崖鍾乳洞、はくせきがいしょうにゅうどう)です。

白石崖鍾乳洞は、チベット高原の一番北東にあります。ヒマラヤ山脈から遠く離れていますが、それでも標高3280 mにあります。ちなみに、デニソワ洞窟は標高700 mにあります。白石崖鍾乳洞でのデニソワ人の発見は、大きな驚きをもたらしました。見つかったのは歯の付いた下あごの骨ですが、これが16万年以上前のものと推定されたのです(Chen 2019)。チベット高原は、気温が低いだけでなく、空気が薄く、かなり過酷なところです(チベット高原の平均標高は4000 mぐらいで、この高さでは酸素の量が低地の2/3未満になっています。酸素の量が1/3になると、エベレストの頂上並みで、人間はとても生活できません)。チベット高原には3~4万年頃から現生人類が現れましたが、それまではだれもいなかったと考えられていました(Zhang X. 2018)。そのチベット高原から、16万年以上前のデニソワ人の骨と歯が出たのです。Chen氏らの研究では、DNA分析がうまくいかず、タンパク質分析によって骨と歯がデニソワ人のものであると判定されました(Chen 2019、DNAとタンパク質の関係については補説を参照)。

時にDNA分析の代わりになりうるタンパク質分析は大きな進歩ですが、最近ではもっとびっくりする研究も出てきています。V. Slon氏らの研究などがそうです(Slon 2017a)。これまでは、古代人の骨と歯が見つかって、その骨と歯が調べられてきました。しかし、そのような発見はまれで、なかなか歴史を明らかにできないもどかしい状況がありました。Slon氏らの研究では、骨と歯が見当たらない場所でも、そこの堆積物から古代の人と動物のDNAを明らかにしてしまいます(人と動物の残骸が微細な形で残っているということです)。なんとも奇抜な研究ですが、このような研究が広まりつつあります。

最近の研究の進歩は、日本の研究にとっても朗報かもしれません。日本は火山が非常に多く(富士山もその一つです)、それらの火山は長い歴史の中で何回も何回も噴火してきました。火山から噴出して降ってくる火山灰のために、日本の土壌は酸性度が高く、骨と歯がなかなか残りません。沖縄を除く本土は特にそうです。

Chen氏とSlon氏らは、すでに白石崖鍾乳洞でも、堆積物から何人かのデニソワ人のDNAを明らかにしています(Zhang D. 2020)。年代の違う各層からデニソワ人のDNAが出ており、デニソワ人が何万年もの長期にわたって白石崖鍾乳洞にいたことが示されています。DNA分析により、白石崖鍾乳洞にいたデニソワ人がデニソワ洞窟で最初に見つかったデニソワ人と近い関係にあることも示されています。

冒頭の地図をもう一度見てください。デニソワ人が何万年もの長期にわたってデニソワ洞窟にいたことがわかっています(Douka 2019)。デニソワ人が何万年もの長期にわたって白石崖鍾乳洞にいたこともわかりました。デニソワ人がこの二箇所だけにいたとは到底考えられません。調査・分析技術が進歩しているので、今後東ユーラシアの様々な場所でデニソワ人の存在が確認される可能性が高いです。Browning氏らやJacob氏らは、パプアニューギニアの人々のDNAには見られないが東アジアの人々のDNAには見られるデニソワ人由来の部分があることを示していますが、このデニソワ人由来の部分がどこで東アジアの人々に入ったのかというのも気になります。デニソワ洞窟のあるシベリアでしょうか、それとも、中国南部でしょうか(Chen氏らは、白石崖鍾乳洞のデニソワ人の骨が、台湾近海で網にかかって発見された古人類の骨とよく似ているとも述べています(Chen 2019およびそこに挙げられているChang 2015))。

現生人類が東南アジアルート(南方ルート)と中央アジアルート(北方ルート)(それぞれが単純な一本のルートであるとは限りません)を通って東アジアに入ってくる4~5万年前頃は、東アジアの歴史における最重要局面と言っても過言ではありません。そのような重要な時代ではありますが、手がかりの少ない時代でもあります。現生人類がデニソワ人と接し、交わっていた時代でもあり、デニソワ人が貴重な情報を与えてくれるかもしれません。

現生人類が複雑な様相を呈しながら東アジアに入ってくる旧石器時代のことを無視して、日本の縄文時代および弥生時代の人々の素性を明らかにすることはできないのです。

 

補説

DNAとタンパク質の関係

見つかった骨または歯が、現生人類のものなのか、ネアンデルタール人のものなのか、デニソワ人のものなのか、それともその他の種のものなのか知りたければ、DNA配列を調べるのが一番です。しかし、それがかなわない時には、タンパク質を調べる方法もあります。DNA配列とタンパク質には密接な関係があるからです。

DNA配列に基づいてRNA配列が作られ、RNA配列に基づいてアミノ酸の連なりが作られ、このアミノ酸の連なりがタンパク質であるという関係があります。

それほど難しい話ではありません。図中のDNA配列を見てください。DNA配列は、アデニンA、チミンT、グアニンG、シトシンCという四種類の物質が作る列です。図のように、二つの列が寄り添うように存在しています。Aの向かいはT、Tの向かいはA、Gの向かいはC、Cの向かいはGと決まっています。二つの列のうちの一つの列(ここでは下段の列)をもとにして、RNA配列が作られます。

下段の列をもとにしてRNA配列が作られる時には、Aの向かいはU、Tの向かいはA、Gの向かいはC、Cの向かいはGになります。こうして、RNA配列は、アデニンA、ウラシルU、グアニンG、シトシンCという四種類の物質が作る列になります。RNA配列のAUGの部分が、Met(メチオニン)というアミノ酸を作りなさいという命令になっています。同様に、AAGの部分がLys(リジン)というアミノ酸を作りなさいという命令、UUUの部分がPhe(フェニルアラニン)というアミノ酸を作りなさいという命令、GGCの部分がGly(グリシン)というアミノ酸を作りなさいという命令になっています。このようにしてアミノ酸が多数連なったのが、タンパク質です(図には書ききれませんでしたが、タンパク質を構成するアミノ酸は20種類あります。タンパク質は、折りたたまれて立体構造を取っているのが普通です)。

一連の過程を見ればわかるように、おおもとのDNA配列が、どのようなアミノ酸の連なりを作り出すか、つまり、どのようなタンパク質を作り出すかを決定しています。現生人類、ネアンデルタール人、デニソワ人およびその他の種のDNA配列の違いは、作り出されるタンパク質の違いとして表れます。骨または歯からDNAが抽出できない時に、タンパク質を抽出して種の判別が行えるのは、そのためです。

 

参考文献

Browning S. R. et al. 2018. Analysis of human sequence data reveals two pulses of archaic Denisovan admixture. Cell 173(1): 53-91.

Chang C. et al. 2015. The first archaic Homo from Taiwan. Nature Communications 6(1): 6037.

Chen F. et al. 2019. A late Middle Pleistocene Denisovan mandible from the Tibetan Plateau. Nature 569(7756): 409-412.

Douka K. et al. 2019. Age estimates for hominin fossils and the onset of the Upper Palaeolithic at Denisova Cave. Nature 565(7741): 640-644.

Jacob G. S. et al. 2019. Multiple deeply divergent Denisovan ancestries in Papuans. Cell 177(4): 1010-1021.

Prüfer K. et al. 2014. The complete genome sequence of a Neanderthal from the Altai Mountains. Nature 505(7481): 43-49.

Qin P. et al. 2015. Denisovan ancestry in East Eurasian and Native American populations. Molecular Biology and Evolution 32(10): 2665-2674.

Reich D. et al. 2010. Genetic history of an archaic hominin group from Denisova Cave in Siberia. Nature 468(7327): 1053-1060.

Reich D. et al. 2011. Denisova admixture and the first modern human dispersals into Southeast Asia and Oceania. American Journal of Human Genetics 89(4): 516-528.

Sawyer S. et al. 2015. Nuclear and mitochondrial DNA sequences from two Denisovan individuals. Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America 112(51): 15696-15700.

Slon V. et al. 2017a. Neandertal and Denisovan DNA from Pleistocene sediments. Science 356(6338): 605-608.

Slon V. et al. 2017b. A fourth Denisovan individual. Science Advances 3(7): e1700186.

Zhang D. et al. 2020. Denisovan DNA in Late Pleistocene sediments from Baishiya Karst Cave on the Tibetan Plateau. Science 370(6516): 584-587.

Zhang X. et al. 2018. The earliest human occupation of the high-altitude Tibetan Plateau 40 thousand to 30 thousand years ago. Science 362(6418): 1049-1051.