「正しい」という抽象的な語

ベトナム語の ánh sáng (光)アンサンのような語がasaという形で日本語に入ったようだという話をしましたが、同じように、ベトナム語の thẳng thẳng (まっすぐな)タンタンのような語が*tataという形で日本語に入ったようです。音節が子音で終わることのできない日本語では、当然の変形といえます。

暗い状態を意味したɸuka(深)にɸuku(更く)という動詞があり、明るい状態を意味したasa(浅)にasu(褪す)という動詞がありました。まっすぐな状態を意味した*tataにtatuという動詞があってもおかしくありません。実際に、まっすぐな状態を意味した*tataから、奈良時代の日本語の自動詞tatu(立つ)と他動詞tatu(立つ)が作られたと見られます。自動詞tatu(立つ)は四段活用で、他動詞tatu(立つ)は下二段活用です。

*tataは、自動詞tatu(立つ)と他動詞tatu(立つ)だけでなく、tate(縦)のもとにもなっていると考えられます。そして、そのような*tataの存在をさらに裏づけるのが、奈良時代の日本語のtadasi(正し)とtadasu(正す)です。

※奈良時代には、まっすぐに向かう道を意味するtadatiという語もありました(tadatiのtiは、iɸedi(家路)やtabidi(旅路)のdiと同じものです。ちなみにmiti(道)も、もともと*tiの前にmiがくっついてできた語なのです。この*tiは、ウラル語族のフィンランド語tie(道)やネネツ語ti(方向)などと関係があると見られ、非常に古い歴史を持っているようです。現代の日本語のkotti(こっち)(古形koti)やatti(あっち)(古形ati)のtiも同類です。同じ語が「道」を意味したり、「方向」を意味したりするのは、英語のwayを見ていればよくわかると思います。日本語の*tiもそうだったのです)。今では、tadatiという名詞はもう使われていませんが、tadatini(ただちに)という副詞になって残っています。

人間の言語に、「正しい」などという抽象的な意味を持つ語が最初からあったはずはありません。よくあるパターンは、まっすぐな状態を意味する語と曲がった状態(あるいはそれに類する状態)を意味する語があって、前者がよい意味を持ち、後者が悪い意味を持つようになるパターンです。英語のrightは意味がすっかり抽象化していますが、例えばラテン語にある同源のrectusを見ると、「まっすぐな」という意味がしっかり残っています。英語のrightも、かつてはまっすぐな状態を意味していたと考えられるのです。類義語のcorrectは外来語ですが、やはりまっすぐにした状態を意味するラテン語のcorrectusから来ています。インド・ヨーロッパ語族だけでなく、ウラル語族を見渡しても、「まっすぐな」と「正しい」の間には密接な関係があります。かなり普遍的な現象といえそうです。

ベトナム語の thẳng thẳng (まっすぐな)タンタンのような語が*tataという形で日本語に入り、奈良時代の日本語のtadasi(正し)とtadasu(正す)もそこから発展したと考えられます。

その一方で古代中国語では・・・

古代中国語でまっすぐな状態を意味していたのは、drik(直)ディクです。drikというのは Baxter 2014 の表記の仕方ですが、このdrは二つの子音ではなく、一つの子音を表しています。言語学で有声そり舌破裂音と呼ばれ、 [ ɖ ] と記される子音です。ɖiは、diと似ていますが、diよりも舌をうしろにそらせて発音します。古代中国語のdrik(直)ディクは、dikiとtyokuという音読みで日本語に取り込まれました。もととなる古代中国語自体に時代・地域によるバリエーションがあることに注意してください。

dikiはzikiになり、現代ではzikini(じきに)やzikizikini(じきじきに)などの形で残っています。zikini(じきに)やzikizikini(じきじきに)の意味を考えてみてください。時間的・空間的に遠くないこと、間を置かないことを意味しています。古代中国語のdrik(直)ディクは、dikiとtyokuだけでなく、tika(近)とdika(直)という形でも日本語に入ったと見られます。日本語が語頭で濁音を使うのを許さなかった時代には、語頭の子音はtにせざるをえません。

 

参考文献

Baxter W. H. et al. 2014. Old Chinese: A New Reconstruction. Oxford University Press.