追いやられた男と女(4)

今度はウラル語族の男と女に関する語彙に目を向けます。筆者にとって不思議だったのは、ウラル語族全体で、「女」を意味する語はまあまあ一致しているのに、「男」を意味する語は完全にばらばらであるということでした。男より女が重要な社会だったのかなと考えたりもしました。

ウラル語族の「男」

「男」と「女」は、例えば、フィンランド語ではmies(男)/nainen(女)、ハンガリー語ではférfi(男)フェールフィ/nő(女)ノー、ネネツ語ではxasawa(男)ハサワ/nje(女)ニェです(フィンランド語のnainen(女)のnenの部分は後で付けられたものです)。「女」を意味する語に比べて、「男」を意味する語のばらつきが一目瞭然です。ちなみに、ハンガリー語のférfi(男)は、férj(夫)フェーリュとfiú(息子)フィウーがくっついた語で、さほど古い語でないことを思わせます。

このようなハンガリー語のférfi(男)には、大いに考えさせられるところがあります。現代の私たちは巨大な社会の中で暮らし、知らない人々にまわりを囲まれています。しかし、はるか昔には、人間社会は非常に小さく、今よりも身内の人々にまわりを囲まれていたはずです。そのような生活環境では、「男」のような一般的な意味を持つ語より、親族の名称・呼称のほうが重要だったのかもしれません。

そのように考えた筆者は、ウラル語族の男の親族の名称・呼称を調べました。すると、圧倒的に目立つ語があります。フィンランド語のisä(父)イサとそれと同源の語がウラル語族全体に広がっているのです。しかし、意味は必ずしも「父」とは限らず、「祖父」を意味したり、「おじ」を意味したり、「兄」を意味したりしている場合もあります。フィンランド語のisä(父)に対応するのは、ハンガリー語ではős(先祖)オーシュ、ネネツ語ではnisja(父)ニースィアです(ハンガリー語のős(先祖)は、祖父や父に対して使われているうちに、先祖を意味するようになった語です。ネネツ語は語頭に母音が来るのを避けるためになんらかの子音を前に補う傾向があり、nisja(父)のnは補われたものです)。

ウラル語族では、フィンランド語のisäのような語が男の年長者に対して広く使われていたようです。フィンランド語のisäなどに対応する語が日本語にあれば、isaという形になりそうです。日本語の男に関係した語彙の中に、それらしい語はあるでしょうか。筆者の頭に思い浮かんだのは、isamu(勇む)とisamasii(勇ましい)でした。

ひとまずこの件は置いておき、ウラル語族の「女」を見てみましょう。

ウラル語族の「女」

ウラル語族の「女」は、比較的一致度が高いので、一覧表にして示します。

「女」を意味する語は、ウラル山脈の近辺の言語で入れ替わりが目立ちますが、それ以外の言語ではよく残っています。ウラル語族においてフィンランド語が概して一番よく古代の発音を保っていること、そしてウラル語族において単語が母音で終わるのが原則であったこと(この点で昔のウラル語族の言語は日本語に近いです)を考慮に入れると、*najVという祖形が推定されます。jは日本語のヤ行の子音で、Vはなんらかの母音です。

ウラル語族では、*najVのような語が「女」を意味していたようです。日本語の女に関係した語彙の中に、それらしい語はあるでしょうか。筆者の頭に思い浮かんだのは、nayonayo(なよなよ)でした。日本語のnayonayo(なよなよ)は、単純に弱さを意味するのではなく、どこか柔らかさやしなやかさのようなものが漂っており、ここにこの語の特徴があります。

日本語にmetake(女竹)という語があります。細くてしなやかな竹をこのように呼びました。しかし実は、metakeよりも前に、nayotakeという語がありました。metakeもnayotakeも同じ意味です。奈良時代には、nayotakeと言っていました。

日本語において、単独のme(女)は廃れましたが、metake(女竹)やmemesii(女々しい)のような語を残しました。おそらく、同じようなことが奈良時代より前にあって、単独の*nayoは廃れたが、nayotakeやnayonayoのような語を残したと見られます。日本語の歴史に*nayo(女)→me(女)→onna(女)という交代があったということです。nayamu(悩む)とnayu(萎ゆ)も、nayonayo(なよなよ)と同類でしょう(nayamu(悩む)は肉体的な不調も精神的な不調も両方意味していました)。

*isaと*nayo

ウラル語族の各言語で「男」を意味する語がばらばらなのは、フィンランド語のisäのような語が祖父、父、その他の年長者に対して広く使われていた間は、男全体(つまり生まれたばかりの男から年を取った男まで)を意味する語がなかなか発達できず、フィンランド語のisäのような語の使い方が限定的になってようやく、男全体を意味する語が発達できるようになったためではないかと思われます。

nayotakeやnayonayoから、かつて日本語に存在したであろう*nayoの姿がうっすら見えるように、isamuやisamasiから、かつて日本語に存在したであろう*isaの姿がうっすら見えます。この*isaとkiyosi(清し)がくっついたのがisagiyosi(潔し)でしょう。もともと、isamu(勇む)やisamasi(勇まし)と同様に、男らしい振る舞い・態度を表していたと思われます。

こうして見ると、ウラル語族と同じように、かつての日本語でも、*isaが祖父、父、その他の年長者に対して広く使われ、*nayoが女を意味していたのだろうと想像できます。

しかし、奈良時代の日本語を見ると、*isaと*nayoのなごりはあるものの、*isaがいるはずの場所にはtiti、oɸodi、wodi、tiがおり、*nayoがいるはずの場所にはmeがいるのです。男のほうのtiti、oɸodi、wodi、tiも、女のほうのmeも、ウラル語族とは違う語彙です。現代のotoko(男)につながるwotokoも、現代のonna(女)につながるwominaも、ウラル語族とは違う語彙です。どうやら日本語に極めて大きな変化が起きたようだと筆者は気づき始めました。

※日本語の*nayoは、ウラル語族の*najV(女)だけでなく、古代中国語のnrjo(女)ニオにも似ています(この Baxter 2014 のnrという表記は、そり舌鼻音[ɳ]を表しています。[n]とよく似ていますが、[n]よりも舌先をうしろにカールさせて発音します)。しかし、古代中国語のnrjo(女)は、シナ・チベット語族では非標準的な語です。外来語である可能性が高く、むしろ遼河文明の言語から取り入れられた可能性があります。

 

参考文献

Baxter W. H. et al. 2014. Old Chinese: A New Reconstruction. Oxford University Press.

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