幸(さき)と幸(さち)—不完全に終わった音韻変化

ラテン語でca、ci、cu、ce、coと書けば、その発音は日本語の「カ、キ、ク、ケ、コ」と同様です。しかし、ラテン語の一後継言語であるイタリア語でca、ci、cu、ce、coと書くと、「カ、チ、ク、チェ、コ」のような音になります。このように、「キ」だった音が「チ」のようになり、「ケ」だった音が「チェ」のようになる変化は、人類の言語に大変よく見られます。「キ」だった音が「チ」のようになる変化を、ここでは仮にキチ変化と呼びましょう。

日本の近くだと、中国語(標準語)でキチ変化が起きています。例えば、「基」はチーのように発音し、「金」はチンのように発音します。

イタリア語と中国語ではキチ変化が徹底的に起きましたが、日本語ではキチ変化が起きかけて、不完全なまま終わってしまったようです。そのような痕跡が窺えます。

saki(幸)とsati(幸)

奈良時代の日本語には、saki(幸)という語とsati(幸)という語がありました。どちらも「幸せ、幸福」という意味を持っていましたが、sati(幸)のほうは複雑で、「海や山でとれる獲物」、「海や山で獲物をとるための道具(特に釣り竿と釣り針、弓と矢)」という意味もありました。このsaki(幸)とsati(幸)で意味範囲が違うことをどう解釈したらよいかというのは、なかなか難しい問題です。sati(幸)のほうに「海がもたらす幸せ、山がもたらす幸せ」→「海でとれる食べ物、山でとれる食べ物」というような意味の変化・拡張があったのかなと考えたくもなりますが、このようにしてsati(幸)の意味範囲全部を説明するのは強引かなという気もします。sati(幸)は実は、saki(幸)がキチ変化したsatiという要素と別の要素が合わさった語だったという可能性もあります。いずれにせよ、キチ変化は人類の言語に広く見られる現象なので、saki(幸)とsati(幸)という語がある以上、日本語でもキチ変化があったかどうか検討する必要があります。他の例を見てみましょう。

※saki(幸)が動詞化して、sakiɸaɸuという動詞ができました。そして、sakiɸaɸuが名詞化して、sakiɸaɸiという名詞ができました。このような過程を経て、現代のsaiwai(幸い)に至ります。

huti(淵)

川は上流から下流までどこも同じ調子で流れているわけではありません。深くなって水がよどんでいるところは、huti(淵)と呼ばれます。逆に、浅くて流れが速いところは、se(瀬)と呼ばれます(年末を意味する「年の瀬」という表現は、忙しい時期を川の速い流れに例えたものです)。

前に、日本語にはkura(暗)/kuro(黒)という語があるため、古代中国語のxok(黑)ホクとそのバリエーション形は、日本語では意味が少しずれて深さや濃さなどを意味するようになったという話をしました(「深い」と「浅い」の語源を参照)。日本語の*puka→ɸuka(深)はそうしてできた語ですが、これと同類の*pukiあるいは*ɸukiという語もあったと思われます。この*pukiあるいは*ɸukiがキチ変化を起こして、奈良時代のɸuti(淵)になったのではないかというわけです。キチ変化を考慮に入れれば、ɸuka(深)とɸuti(淵)というペアは形的にも意味的にもぴったり合います。

もし上の通りなら、日本語のɸuti(淵)はɸuka(深)と同じように古代中国語由来ということになります。筆者はそのように考えていますが、この考えにはもちろん根拠があります。実は、日本語のse(瀬)もkaɸa(川)も古代中国語由来のようなのです。

古代中国語のtshjen(淺)ツィエンは、ある時代にsenという音読みで日本語に取り込まれました。しかし、それまでの日本語では、senのように子音で終わるのはタブーでした。古代中国語のtshjen(淺)はある時代にsenという読みで取り入れられたが、それよりも前の時代にseという読みで取り入れられていたという可能性も考えなければいけません。先ほどのɸuti(淵)の件と合わせると、浅くて流れが速いところを意味するse(瀬)は、古代中国語のtshjen(淺)を取り入れたものと考えるのが自然です。

日本語のɸuti(淵)とse(瀬)だけでなく、kaɸa(川)も中国語由来と見られるのはなかなか驚きです。古代中国語には、kæwng(江)カウンという語がありました。この語はもともと長江を指していましたが、のちには一般に大きな河を意味するようになりました。古代中国語のkæwng(江)は、ある時代にkouおよびkauという音読みで日本語に取り込まれました。古代中国語のkæwng(江)は、前に取り上げた古代中国語のkæw(交)に似たケースと見られます。つまり、古代中国語のkæw(交)は、のちにkauという音読みで日本語に取り込まれることになるが、すでにその前にkaɸu、kaɸasu、kaɸaruという形で日本語に入っていた、古代中国語のkæwng(江)は、のちにkauという音読みで日本語に取り込まれることになるが、すでにその前にkaɸaという形で日本語に入っていたということです。kaɸaは現代ではkawaになりましたが、日本語のkawa(川)の語源は古代中国語のkæwng(江)だったというわけです。

noti(のち)

以前に、ベトナム語のsau(うしろ)のような語が日本語に*soという形で入り、この*soがse(背)に変化したという話をしました(*soはsomuku(そむく)やsomukeru(そむける)などに組み込まれて残っています)(「背(せ)」の語源を参照)。その時に、東アジア・東南アジアの言語で「うしろ」のことをなんと言っているか表にして示しましたが、表の中にミャンマー語のnauʔ(うしろ)ナウッという語もありました。nauʔは、ミャンマー語の前身である古ビルマ語ではnaukでした。シナ・チベット語族のいくつかの言語には、このような語が見られます。

日本語には、ベトナム語のsau(うしろ)のような語だけでなく、古ビルマ語のnauk(うしろ)のような語も入ったようです。ベトナム語のsau(うしろ)のような語は*soになりましたが、古ビルマ語のnauk(うしろ)のような語はnoku(退く)、nokosu(残す)、nokoru(残る)などになったと見られます(doku(退く)はnoku(退く)が変化したものでしょう)。古ビルマ語のnaukには、「うしろ」という空間的な意味だけでなく、「後」という時間的な意味もありました。このことを考えると、日本語のnoti(のち)も無関係とは思えません。「晴れのち曇り」のnoti(のち)です。当初は、noku(退く)、nokosu(残す)、nokoru(残る)などとお揃いで、*nokiだったのでしょう。それがキチ変化を起こしてnoti(のち)になったと見られます。

kati(徒歩)

toho(徒歩)は今でも使われますが、kati(徒歩)はもう死語でしょう。katiは「徒、歩行、歩」とも書かれ、歩くことを意味した語です。

古代中国語には、tsjowk(足)ツィオウクという語とkjak(腳)キアクという語がありました。日本語では、tsjowk(足)にsoku、syokuという音読みを与え、kjak(腳)にkaku、kyakuという音読みを与えました。しかし、これも中国語と日本語の関係の一部にすぎません。

古代中国語のtsjowk(足)は、tokotoko(とことこ)、tukatuka(つかつか)という形でも日本語に入ったようだという話をしました。現代の日本人には少し奇異に見えるかもしれませんが、昔の日本人はtyoukV、tyokV、tyukVのような形に不慣れであり、どうしてもtokV、tukVという形に行き着いてしまいます。その結果がtokotoko(とことこ)、tukatuka(つかつか)です。

日本語にはasi(足・脚)という語があるので、古代中国語のtsjowk(足)はtokotoko(とことこ)、tukatuka(つかつか)という形で日本語に入ったのです。古代中国語のkjak(腳)はどのような形で日本語に入ったのでしょうか。私たちが足・脚で行うことといえば、まずなんといっても「歩くこと」でしょう。古代中国語のtsjowk(足)はtokVとtukVという形になりましたが、古代中国語のkjak(腳)はkakVという形になることが予想されます。どうやら、古代中国語のkjak(腳)は、前の例と同じように母音iが補われて、*kakiという形を取ったようです。これがキチ変化を起こすと、katiになります。日本語において、古代中国語のtsjowk(足)がtokV、tukVという形になって「歩くこと」を意味しようとする、古代中国語のkjak(腳)がkakVという形になって「歩くこと」を意味しようとするのは、ごく自然な流れです。

ちなみに、奈良時代の日本語のɸumu/ɸomu(踏む)は、「足を踏み出す動作」を意味した古代中国語のbu(步)(日本語での音読みはbu、ɸo、ɸu)から作られたと見られます。やはり、古代中国語の主な語は、奈良時代よりももっと前になんらかの形で日本語に入っています。古代中国語のkjak(腳)の場合は、まず*kakiという形で存在し、その後キチ変化を起こして、奈良時代にはkatiという形で存在していたと考えられます。

「(馬に乗って)走ること」を意味した日本語のkaku(駆く)も、古代中国語のkjak(腳)と無関係ではないでしょう。

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sati(幸)、huti(淵)、noti(のち)、kati(徒歩)と、キチ変化が起きたのではないかと思われる例を見てきました。このほかにもありそうですが、その数は多いとはいえません。しかし、キチ変化が全くなかったようにも見えません。

これまでの歴史言語学が往々にしてそうでしたが、言語の歴史を長いスパンで考える時には、どうしても大雑把な見方をしがちです。時代が移りゆくなかで、言語を構成する一語一語の発音は少しずつ変化しています。当然、その変化を引き起こしているのは人間です。しかし、ここでよく考えてみてください。私たちは、これからはこういうふうに発音することにしましょうなどと皆で話し合って決めているわけではありません。だれか(一人または少数の人間)が最初に発音の変化を仕掛けているのです。

だれかがある語を従来と少し違う仕方で発音したとしましょう。その新しい発音の仕方は、他の人々に全く相手にされないかもしれません。逆に、他の人々に受け入れられて、古い発音の仕方を消滅させるかもしれません。あるいは、古い発音の仕方と新しい発音の仕方が並存して、しばらくそのままになったり、じきに異なる意味を持つようになったりするかもしれません。

だれかがある語を従来と少し違う仕方で発音して、それで満足するかもしれません。あるいは、満足せず、その語と発音上の共通点あるいは類似点を持つ他の語でも変化を仕掛けるかもしれません。だれかが、ある語を従来と少し違う仕方で発音して、それで満足しても、感化された別のだれかが、満足せず、その語と発音上の共通点あるいは類似点を持つ他の語でも変化を仕掛けるかもしれません。

このように、複雑な現象がいくらでも考えられるわけですが、だれかがある語を従来と少し違う仕方で発音したことが、最終的に言語にどれほどの変化を残すかという点に注目すると、大きく以下の三つのパターンが考えられるでしょう。

(1)なんの変化も残さない。
(2)言語の隅々まで行きわたった変化を残す。
(3)ある語あるいはいくつかの語に変化を残す。

歴史言語学が人類の言語の歴史を考えるうえで発音の変化に注目したのはよいことでしたが、そこから(2)のような変化ばかりに光が当てられて、(3)のような変化が陰に隠れ気味だった感は否めません。

日本語ではyuku(行く)という言い方が廃れて、iku(行く)という言い方が一般的になりましたが、追随してyuka(床)がikaになったり、yuki(雪)がikiになったりすることはありませんでした。yuka(床)がikaになってはいけなかったのか、yuki(雪)がikiになってはいけなかったのかといえば、そんなことはありません。そうなる可能性もあったし、そうならない可能性もあったのです。両方の可能性があるなかで、日本語が後者の道を進んだにすぎません。

例として挙げたsati(幸)、huti(淵)、noti(のち)、kati(徒歩)のように、yuki(雪)はyutiになってはいけなかったのかといえば、そんなこともありません。そうなる可能性も、そうならない可能性もあるなかで、日本語が後者の道を進んだにすぎません。そもそも、sakiからsati、*ɸukiからɸuti(あるいは*pukiから*puti)、*nokiからnoti、*kakiからkatiが作られたのが同じ時代の同じ場所だったとも限りません。

中国語(標準語)ではキチ変化が徹底的に起きて、「キ」の音が完全に消えてしまいました。しかし、日本語で起きたキチ変化はそのような徹底的なものではなかったようです。

だれかがある語を従来と少し違う仕方で発音していることは確かです。そうでなければ、各語の発音はいつまでも変化しません。しかしながら、だれかがある語を従来と少し違う仕方で発音したことが、最終的に必ず(1)か(2)のどちらかの結果に至ると考えることは行き過ぎであり、実際の言語データと合いません。(1)のようにも、(2)のようにも、(3)のようにもなりうるのが現実です。

上に挙げたnoku(退く)、nokosu(残す)、nokoru(残る)とdoku(退く)も好例でしょう。nokuからdoku、nokasuからdokasu、nokeruからdokeruが生じても、nokosuからdokosu、nokoruからdokoruが生じるとは限りません。また、noku、nokasu、nokeruも完全に死んでいるとは言いがたい状態です。これも、不自然な現象というよりは、むしろ自然な現象です。

言語の系統関係を明らかにしようとする歴史言語学が行き詰まったのにはいくつか理由がありますが、一つは、発音の変化のパターンには注目するが、意味の変化のパターンには注目してこなかったこと、そしてもう一つは、言語において起きる発音の変化をあまりに単純に捉えようとしたことです。歴史言語学は大きく見直されなければなりません。

 

補説1

「しあわせ」は「幸せ」ではなかった

現代の日本語では、saiwai(幸い)は決まった言い回しの中で使われることが多く、siawase(幸せ)のほうが一般的です。しかし、後者はもともと「為合はせ/仕合はせ」と書かれていた語で、意味も現代と違っていました。「為合はせ/仕合はせ」は、めぐり合わせのような意味を持つ語で、「為合はせ/仕合はせがよい」とか、「為合はせ/仕合はせが悪い」とか言っていました。「為合はせ/仕合はせ」自体は、よい意味も悪い意味も持っていなかったのです。ところが、意味が偏ってきて「為合はせ/仕合はせがよいこと」、つまり幸運を意味するようになり、現代では幸福を意味するようになりました。同時に、「幸せ」と書かれるようになりました。

ちなみに、英語のhappy(幸せな)も同じような歴史を持っています。もう現代の英語ではほとんど使われなくなりましたが、偶然を意味するhapという名詞がありました。偶然にはよい偶然も悪い偶然もありますが、よい偶然を意味することが多くなり、そこからhappyという語が生まれました。happyは当初は幸運を意味していましたが、やがて幸福を意味するようになりました。happyの同類としてhappenがありますが、こちらはなにかが偶然に起きることを意味しています。

補説2

古代中国語の thu dij (土地)

古代中国語のxok(黑)ホクとそのバリエーション形が、ある時代には*puka→ɸuka(深)という形で、別の時代にはkoku(黒)という形で日本語に入りましたが、これに限らず、日本語でuとoが入り乱れている例は多いです。古代中国語の thu dij (土地)トゥディイもそのようなケースで、ある時代にtutiという形で、別の時代にtoti(土地)という形で日本語に入ったと見られます。奈良時代の日本語に存在するtutiは、「土」と書かれたり、「地」と書かれたりし、よくame(天)の対義語として使われています。やはり、奈良時代の日本語のtutiは、古代中国語の thu dij (土地)を取り入れたものと考えられます。

高句麗語の数詞に注目する

中国の春秋戦国時代の地図を見ると、漢字で表記された様々な国がひしめいています。しかし、ここで注意しなければならないのは、春秋戦国時代は単に中国語を話す者(中国語を母語とする者)同士が戦っていたわけではないということです。遼河流域からやって来た言語を話す人々もいたし、中国語以外のシナ・チベット語族の言語を話す人々もいたし、ベトナム系の言語を話す人々もいたし、タイ系の言語を話す人々もいたのです。

朝鮮の三国時代も同様で、単純に新羅と高句麗と百済で同じ言語が話されていたと考えてはいけません。新羅語は、現代の朝鮮語に至る言語です。高句麗語と百済語は、新羅が朝鮮半島を統一したことによって消滅した言語です。高句麗語と百済語は、わずかな記録が残っているだけです。しかし、そのわずかに残された記録を見ると、高句麗語と百済語は新羅語よりむしろ日本語に近いのではないかと思わせるところがあります。

高句麗語の数詞の話はよく取り上げられるので、ご存知の方もいるかもしれません。ひらがなとカタカナができる前の日本語と同じで、高句麗語の音も漢字で表されていました。完全に一致とはいかなくても、近い音を持つ漢字を当てていたわけです。高句麗語の1から10までの数詞のうちの四つは明らかになっており、3は「密」、5は「于次」、7は「難」、10は「德」と書き表された記録があります( Beckwith 2004 )。中国語の一時代の一方言を示した Baxter 2014 の表記では、順にmit、 jo tshij イオツィイ、nan、tokです。四つの数詞しかわかっていなくて、その四つがこうなのです。確かに、日本語の「みっ(つ)、いつ(つ)、なな(つ)、とお」を思わせます。

※高句麗語の7は「難隱別」という記録に現れ、ほとんどの研究者は「難隱」の部分が7を表すと解釈してきましたが、 Beckwith 2004 は「難」の部分が7を表し、「隱」の部分は属格の接尾辞(日本語の助詞の「の」のようなもの)であると分析しています。

参考として、ウラル語族のフィンランド語、ハンガリー語、ネネツ語の数詞を示します。

フィンランド語の数詞とハンガリー語の数詞は1~6が共通していますが、ネネツ語の数詞は明らかに違います(7に関しては、似たような語がユーラシア大陸の北方に語族を超えて大きく広がっており、英語seven、ラテン語septem、古代ギリシャ語hepta、サンスクリット語saptaなどもここに含まれます。そのため、フィンランド語seitsemän、ハンガリー語hét、ネネツ語sjiʔwが類似していても、単純にウラル語族の内部の問題として処理できません)。

こうして見ると、高句麗語の数詞と日本語の数詞の類似性は際立っています。周辺の朝鮮語set(3)セッ、tasɔt(5)タソッ、ilgɔp(7)イルゴ(プ)、jɔl(10)ヨル、ツングース系のエヴェンキ語ilan(3)イラン、tunŋa(5)トゥンンガ、nadan(7)ナダン、djān(10)ディアーン、モンゴル語gʊrav(3)ゴラブ、tav(5)タブ、doloon(7)ドローン、arav(10)アラブなどを見ても、やはり高句麗語の数詞と日本語の数詞の類似性は際立っています。高句麗語の数詞は3、5、7、10の四つしか明らかになっていませんが、高句麗語の3、5、7、10と日本語の3、5、7、10が似ているというのは、大変意味のあることです。1、2、3、4が似ているのではないのです。3、5、7、10が似ているのです。1、2、3、4が似ていても、5以降が異なる可能性は十分にあります。しかし、3、5、7、10が似ているとなれば、1から10までの全部が似ていた可能性が高いのです。以下のように言って差し支えないでしょう。

(1)高句麗語の数詞と日本語の数詞の類似性は偶然ではなく、それらの数詞には共通の出所がある。
(2)その共通の出所は、例えばウラル祖語が話されていた時代(一般的な考えではBC4000年頃)よりもかなり現代に近いところにありそうである。

こうなると、高句麗語と日本語の数詞以外の語彙はどのくらい似ているのかということが俄然興味深くなってきます。

 

参考文献

Baxter W. H. et al. 2014. Old Chinese: A New Reconstruction. Oxford University Press.

Beckwith C. I. 2004. Koguryo: The Language of Japan’s Continental Relatives. Brill Academic Publishers.

光と影の微妙な関係

ベトナム語の ánh sáng (光)アンサンのような語が日本語に入り、asa(朝)や「明るさ、淡さ、薄さ」を意味したasa(浅)などの語になったようだという話をしました。では、古代中国語のkwang(光)クアンはどうなったのでしょうか。どうやら、複雑な話がありそうです。

奈良時代の日本語のkage

奈良時代の日本語のkageは、「光」を意味したり、「姿」を意味したり、「影・陰」を意味したりするかなり微妙な語でした。万葉集にも、日の光のことを「日のkage」と言っている箇所が何箇所もあります。三省堂時代別国語大辞典上代編(上代語辞典編修委員会1967)では、以下のようにコメントしています。

「カゲには光と、光を遮られた暗い部分という、まったく相反する意味が同一の語形の中に共存しているが、その意味の分岐を考えるのは容易でない。」

確かに容易ではないですが、全く理解不可能なものでもありません。光と影の話とは少し違いますが、示唆を得るところがあるので、ラテン語のripaの話をします。

ラテン語のripa

ラテン語のripaは「土手、岸」を意味する語です。その形容詞がripariusで、「土手・岸の」という意味です。このripariusが変化して、ラテン語の一後継言語である古フランス語にriviereという名詞として現れるのですが、意味が「土手、岸」ではなく、「川」になりました(現代のフランス語ではriveが「土手、岸」を意味し、rivièreリヴィエールが「川」を意味しています。英語のriver(川)はフランス語からの外来語です)。「土手、岸」は陸の部分で、「川」は水の部分ではないかと言われれば確かにそうなのですが、隣接関係があれば意味は広がったり、移ったりするのです。日本語で「川のこちら側、向こう側」と言ったりしますが、このkawa(川)とkawa(側)も無関係ではないかもしれません。「川」と「岸」のように区別されるものでも、隣接関係があれば意味は広がったり、移ったりするということです。

再び奈良時代の日本語のkage

日本語のkageもそのようにして意味が「光」から「影・陰」に移っていったと考えられます。上のラテン語のripaの話を聞いた後であれば、「光」を意味する語が「光(直射光または反射光)の中に浮かぶもの、浮かぶ部分」を意味するようになるのは理解できるでしょう。意味は突然変化するのではなく、「Aを意味していた時期」→「Aを意味したり、Bを意味したりしていた時期」→「Bを意味する時期」という具合にゆるやかに推移します。あるいは、「光」を意味する語が「(光と影・陰が作り出す)シルエット」を意味するようになり、「(光と影・陰が作り出す)シルエット」を意味する語が「影・陰」を意味するようになったと理解してもよいでしょう。「A」→「AとBの総体」→「B」という流れです。

奈良時代の日本語のkageが「光」を意味したり、「姿」を意味したり、「影・陰」を意味したりしたことはすでに話しましたが、kageの古形は*kagaと考えられます。この*kagaとmiru(見る)がくっついたのがkagami(鏡)です。奈良時代より前の日本語に存在したと推定される「光」を意味する*kagaについて考察する必要があります。ここで、古代中国語のkwang(光)を議論の俎上に載せます。

前に古代中国語のsaw(騷)が奈良時代の日本語のsawakuとsawasawaになったようだと述べました。古代中国語のsaw(騷)がそのままでは日本語の発音体系になじまないので、母音aを付け足してsawaとしたのです。同じように古代中国語のkwang(光)に母音aを付け足してkwangaとしてみると、どうでしょうか。CV、CVCV、CVCVCVのような形を固く守る昔の日本語に入るには、もう少し変形が必要です。kwangaは、kagaになりそうです。古代中国語のkwan(官)クアンやkwan(冠)クアンが日本語ではkanという読みに落ち着きましたが、このような事例に照らしても、kwangaがkagaになるのは自然です。古代中国語のkwang(光)が日本語にまず*kagaとして入り、その後kageになったと考えられます。古代中国語のkwang(光)は、日本語にkwau(カタカナではクヮウ)という音読みで取り入れられ、kōに変化しましたが、それよりも前に*kaga→kageという形で日本語に入っていたのです。

 

補説

古代中国語のsyew(少)

古代中国語のsaw(騷)に似たケースなので、古代中国語のsyew(少)シエウにも触れておきます。古代中国語のsyew(少)は、日本語にseuという音読みで取り入れられ、その後syōに変化しましたが、これがすべてではないようです。saw(騷)の場合は、単純に母音aを付け足してsawaとし、これがzawazawa(ザワザワ)などにつながっていきましたが、syew(少)の場合は、母音aを付け足すと同時に若干の調整を行ってsiwaとし、これがziwaziwa(じわじわ)などにつながっていったようです。「少しずつ」と同じような意味を持つziwaziwa(じわじわ)です。

 

参考文献

上代語辞典編修委員会、「時代別国語大辞典 上代編」、三省堂、1967年。