「米(こめ)」の語源、中国とベトナムとタイのごはん

古代中国語のkhuw(口)クウがkuɸu(食ふ)になり、ベトナム語のhàm(あご)ハムのような語がkamu(噛む)とɸamu(食む)になり、さらにタイ語のpaak(口)のような語がpakupaku(パクパク)、pakuʔ(パクッ)などになったようだという話をしました(大和言葉(やまとことば)に潜んでいた外来語、見抜けなかったトリックを参照)。

※古代中国語のzyik(食)ジクはzikiとsyokuという音読みで日本語に取り入れられました。zyikは中国語の一時代の一方言の形ですが、日本語のsyokuという音読みを見れば、zyikとは違う形が中国語の内部にあったことがはっきりわかります。このようなバリエーションを考慮に入れると、奈良時代の日本語のsuku(食く)も無関係でないと思われます。zyikのiの部分がuあるいはそれに近い音になっていたのでしょう。奈良時代の日本語のsuku(食く)は、その後もしばらく使われていましたが、やがて廃れてしまいました。

これらの例を見ると、日本語の食に関する語彙は、シナ・チベット語族、ベトナム系言語、タイ系言語の語彙に大きく支配されているのではないかと考えたくなりますが、案の定、その通りになっています。

日本語のgohan(ごはん)は、米を意味したり、食事を意味したりする日常頻出語です。この語は、古代中国語のbjon(飯)ビオン(日本語にはbon、ɸanという音読みで取り入れられ、後者が一般的になって、現代ではhanになっています)から来ています。ベトナム語とタイ語にも、米を意味したり、食事を意味したりする、日本語のgohan(ごはん)のような日常頻出語があります。ベトナム語のcơmとタイ語のkhaawです。ベトナム語のcơmは、曖昧母音[ə]を含む語で、クムのように聞こえたり、コムのように聞こえたりします。タイ語のkhaawは、カーウのように聞こえます。このような語が日本語に入ったようです。

「米、ごはん、食事」を意味するタイ語のkhaawのような語は、「(動物に)食べ物を与えること」を意味した奈良時代の日本語のkaɸu(飼ふ)になったと見られます。古代中国語kæw(交)カウ→kaɸu(交ふ)などと同様の変化です。現代の日本語のkau(飼う)は意味が抽象化していますが、もとの意味からかけ離れてはいません。英語のfood(食べ物)とfeed(食べ物を与える)のような語彙を考えても、上の話はうなずけるでしょう。

ベトナム語のcơmのほうはどうでしょうか。こちらは明確でしょう。「米、ごはん、食事」を意味するベトナム語のcơmのような語は、日本語のkome(米)になったと見られます(子音で終わることができないので母音が補われていますが、母音eが補われているところに大きな特徴があります。後で詳述しますが、このようなケースは非常にまれで、とりわけベトナム系言語からの外来語に認められます)。ただ、奈良時代にはyone(米)という語もあり、むしろこっちのほうがよく使われていたので、日本への稲作の伝来ルートは一つでなかった可能性があります。実際のところ、稲作の伝来ルートに関しては、過去に複数の説が出されてきました。以下の図は、農学者の佐藤洋一郎氏の著作からの引用です(佐藤1995)。朝鮮半島経由説、江南説、南方説の三つに大別されています。

稲作の伝来は日本の歴史を語るうえで外せない重要な問題ですが、これについては別の機会に本格的に論じることにします。

食に関する語彙をもう少し見てみましょう。私たちがkau(飼う)やkome(米)よりはるかによく使う意外な語が日本語に入ってきたようです。

 

補説

現代の日本語の「食べる」

現代の日本語ではtaberu(食べる)という語が一般的になっていますが、この語はもともと食に関する語ではありませんでした。

昔の日本語には、tabu(四段活用)、tabu(下二段活用)、tamaɸu(四段活用)、tamaɸu(下二段活用)という動詞がありました。これらは、目上の者と目下の者の間で行われる授受に関する語でした。上の順で活用を示します。

目上の者から目下の者へなにかが渡ったとしましょう。その時の目上の者の動作をいうのがtabu(四段活用)とtamaɸu(四段活用)で、「お与えになる」という意味です。そして、その時の目下の者の動作をいうのがtabu(下二段活用)とtamaɸu(下二段活用)で、「頂く」という意味です。tabu(四段活用)とtamaɸu(四段活用)の意味は同じで、tabu(下二段活用)とtamaɸu(下二段活用)の意味も同じです。

上の四つの動詞のうちのtabu(下二段活用)が、現代の日本語のtaberu(下一段活用)になりました。意味も、「受け取る」→「受け取って食べる」→「食べる」のように変化しました。授受に関する語が食に関する語になったのです。

 

参考文献

佐藤洋一郎、「稲のきた道」、裳華房、1995年。

上代語辞典編修委員会、「時代別国語大辞典 上代編」、三省堂、1967年。

「足りる」と「足す」になぜ「足」という字が使われるのか?

「足りる」と「足す」になぜ「足」という漢字が使われているのか、疑問を持たれた方もいるかもしれません。昔の日本語にtaruとtasuという語があり、これらに「足」という漢字を当てたわけですが、なぜそんなことをしたのかといえば、古代中国語のtsjowk(足)ツィオウクが下肢を意味するだけでなく、taruとtasuと同じような意味も持っていたからです。

古代中国語のtsjowk(足)の意味・用法には、中国の歴史が関係しています。東アジアでは、非常に古くから土器が作られ、すでに15000年ぐらい前には、様々な場所に土器が存在しました( Kuzmin 2017 )。土器も時代によって変化し、やがて3本の足が付いた土器が現れます。それに続いて、3本の足が付いた青銅器も現れます。いかにも中国らしい器です(写真はWikipediaより引用)。

このような器は、古代中国語でteng(鼎)テンと呼ばれました。teng(鼎)はもともと料理用ですが、祭り事で使われるうちに権力の象徴にもなりました。下肢を意味していた古代中国語のtsjowk(足)は、まずは土器・青銅器などに足を付けることを意味するようになり、そこから一般になにかを加えることを意味するようになっていったと見られます。昔の日本語のtaruとtasuに「足」という漢字が当てられる前に、古代中国側のこのような事情があったのです。

※上のような発想からして、奈良時代の日本語のtuku(付く)(自動詞は四段活用、他動詞は下二段活用)も究極的には古代中国語のtsjowk(足)と同源かもしれません。

taruとtasu自体はどこから来たのか

昔の日本語のtaruとtasuになぜ「足」という漢字が当てられたのかは上の説明で納得できますが、昔の日本語のtaruとtasu自体がどこから来たのかというのは別問題です。

奈良時代の日本語の動詞は「―ru」という形と「―su」という形が対になっていることが多く、taruとtasuもその一例です。taruとtasuについて考える前に、よりわかりやすいaraɸaruとaraɸasuについて考えましょう。

taruとtasuのtaがピンとこなくても、araɸaruとaraɸasuのaraɸaは明らかでしょう。「隠れずに見えている状態」を意味するaraɸaという語があり、そのような状態になることをaraɸaru、そのような状態にすることをaraɸasuと言っていたのです。このような例を見ると、ある状態を意味するtaという語があって、そのような状態になることをtaru、そのような状態にすることをtasuと言っていたのかなと考えたくなります。しかし、このtaは一体なんでしょうか。

奈良時代の日本語の動詞は「―ru」という形と「―su」という形が対になっていることが多いと述べましたが、やはり目立つのは古代中国語から入ったと見られる語です。そのような例は、これまでにもいくつかありました。ここでは、taw(倒)タウとkæ(假)の例を追加しておきます(後者の漢字は日本語では「仮」になっています)。

古代中国語のkæw(交)カウがkaɸu、kaɸasu、kaɸaruという形で日本語に入ったのに似ていますが、古代中国語のtaw(倒)はtaɸuru(倒る)とtaɸusu(倒す)という形で日本語に入りました(今ではtaoreru(倒れる)とtaosu(倒す)になっています)。

古代中国語のkæ(假)は、もともと「仮の、本来のものではない、本物ではない」という意味を持っていました。そこから、なにかが一時的に持ち主の手を離れて、別の人の手に移ることも意味するようになりました。つまり、貸し借りも意味していたのです。この古代中国語のkæ(假)がkaru(借る)とkasu(貸す)という形で日本語に入りました(今ではkariru(借りる)とkasu(貸す)になっています)。

日本語はこのようなことを古代中国語に対してたくさん行っています。昔の日本語のtaruとtasuのtaはなんでしょうか。「いっぱいある状態」を意味するtaという語があって、そのような状態になることをtaru、そのような状態にすることをtasuと言っていたと見られます。このtaはなにかというと、古代中国語のta(多)だったのです。

 

参考文献

Kuzmin Y. V. 2017. The origins of pottery in East Asia and neighboring regions: An analysis based on radiocarbon data. Quaternary International 441: 29-35.

古代中国語の「足」についての補足

古代中国語のtsjowk(足)ツィオウクは、極めて使用頻度の高い基本語なので、実に様々な形で日本語に入っています。ある時代にsoku、syokuという音読みで入りましたが、それ以外にtokotoko(とことこ)、tukatuka(つかつか)という形でも入ったようだという話をしました。

古代中国語のtsjowk(足)は、とてもそのままでは昔の日本語に入れない形をしています。昔の日本語に取り込むためにまず考えられそうな変形は、(1)tok、(2)tuk、(3)sok、(4)sukの4通りです。語頭の子音をtにするかsにするか、そのうしろの母音をoにするかuにするかで4通りです。(1)はtokotoko(とことこ)を生み出したパターン、(2)はtukatuka(つかつか)を生み出したパターン、(3)は音読みのsokuを生み出したパターンです。では、(4)はどうでしょうか。

日本語で「時が過ぎる」とか「時が進む」とか言いますが、このsugiru(過ぎる)とsusumu(進む)が目を引きます。sugiru(過ぎる)は、奈良時代にはsugu(過ぐ)でした。このほかに、sugusu(過ぐす)とsuguru(過ぐる)という語もありました。例えば、「探し求めること」を意味した古代中国語のsak(索)から日本語のsagasu(探す)とsaguru(探る)が生まれたり、古代中国語のxok(黑)ホクからkogu(焦ぐ)、kogasu(焦がす)、kogaru(焦がる)が生まれたりしたように、(4)のsukからsugu(過ぐ)、sugusu(過ぐす)、suguru(過ぐる)が生まれたと見られます(もととなる古代中国語のうしろに母音が補われて、子音kが濁る形で動詞が作られているケースです)。

※古代中国語のsak(索)のもともとの意味は、「縄、綱」です。それらをたぐり寄せる動作から、「なにかを求める」という意味が生じました。日本語では、検索、捜索、模索などでおなじみです。

このように、sugiru(過ぎる)は古代中国語のtsjowk(足)から来ていると考えられますが、susumu(進む)はどうでしょうか。この語は、「すすっと近づく」などのsusuʔ(すすっ)と合わせて考えるべきでしょう。(4)のsukが日本語に入るには、うしろに母音が補われたsukVの形か、末子音kが脱落したsuの形になる必要があります。おそらく、*susuと言って、tokotokoやtukatukaのように足の運びを表していたと思われます。この*susuがsusumu(進む)とsusuʔ(すすっ)になったというわけです。足の動きを表す動詞としては、ayumu(歩む)とaruku(歩く)があったので、古代中国語のtsjowk(足)から作られたsugu(過ぐ)とsusumu(進む)は、少し違う意味や抽象的な意味を担うことも多かったでしょう。

※sugu(過ぐ)以上に意味の隔たりが大きいですが、「通り抜けること、通過すること」に関係があるsuku(透く)などもなんらかのつながりがあると思われます。sukima(すきま)のsukiの部分ももともと「通ること」を意味していたのでしょう。sukima(すきま)よりさらに抽象化が進んでいるのがsuki(隙)と見られます。

古代中国語のtsjowk(足)がtokotoko(とことこ)、tukatuka(つかつか)、sugu(過ぐ)、susumu(進む)のようになるのは、非常にわかりやすいです。しかし、このようなパターンだけではありません。ここではもう一つ、違うパターンを見てみましょう。

英語のfootとロシア語のpod

インド・ヨーロッパ語族によい例があるので、英語のfoot(足)から始めます。英語のfootは、「足首から下の部分」を意味しています。同じゲルマン系のドイツ語にもFußフースという語があり、やはり「足首から下の部分」を意味しています。しかし、スラヴ系のロシア語を見ると、様子が違います。

ロシア語では、足首から下を指す時も、股から下を指す時も、nogaと言うのが普通です。足首から下を指すstopa/stupnjaストゥプニャーという語もありますが、これらはあまり使われません。ロシア語のnogaにしろ、stopa/stupnjaにしろ、英語のfootとは全然違う形をしています。実は、ロシア語にも、英語のfootと同源のpodという語があります。しかし、podは下肢に関する語ではないのです。

ロシア語のpodは前置詞で、以下のような使われ方をします。前置詞のpodが名詞のderevo(木)とgora(山)の前に置かれたところです(ロシア語では前置詞のうしろで名詞が語形変化します)。

前置詞のpodはこのように、なにかの下の部分、底部を指す時に使われます。そのなにかは、人間の体でなくて木や山でもよいのです。

この英語のfootとロシア語のpodの関係と同じように、古代中国語のtsjowk(足)はsoko(底)という形で日本語に取り入れられたと見られます。古代中国語のtsjowk(足)はある時代にsokuという読みで取り入れられたが、もっと前の時代にsoko(底)という形で取り入れられていたということです。後々重要になってくるので、このようなパターンもあるのだと、記憶にとどめておいてください。