4万年前の東アジア

中東のレバント地方で始まった先進的なInitial Upper Paleolithic(後期旧石器時代の初期)が中央アジアを経由して40000~43000年前頃にバイカル湖周辺に到達したことはお話ししました。

バイカル湖周辺に到達したInitial Upper Paleolithic(後期旧石器時代の初期)がその後どうなったのかというのは非常に興味深いところですが、やはりその頃から東アジアでも変化が起き始めていました。しかし、やや複雑な様相を呈していました。

以下の図は、当時の東アジアの状況について考察している人類学者・考古学者のK. Bae氏の論文(Bae K. 2010)から引用したものです。

(K. Bae氏は現代の地図を使って作図していますが、4万年前頃は今より海面が低く、中国東海岸地域、朝鮮半島、台湾の間は陸地でした。図中のBladeは石刃、Microbladeは細石刃、Non-bladeは非石刃という意味です。)

K. Bae氏は朝鮮半島の遺跡を中心に東アジアの歴史を考察していますが、当時は、バイカル湖のほうにはInitial Upper Paleolithic(後期旧石器時代の初期)の石刃技法(東アジアの人々の本質、アフリカから東アジアに至る二つの道を参照)による新型の石器が分布、中国南部のほうにはInitial Upper Paleolithic(後期旧石器時代の初期)を経験していない旧型の石器が分布し、朝鮮半島のあたりでは旧型の石器にまじって新型の石器が現れてくるという状況になっていました(Bae K. 2010)。

旧型の石器にまじって新型の石器が現れてくる状況をどのように解釈したらよいかという点で、人類学者・考古学者の意見が分かれました(Bae C. J. 2012)。東アジアに現れ始めた石刃技法による新型の石器は、東アジアで生まれたのだという意見と、他の場所から伝わってきたのだという意見です。石刃技法による新型の石器はバイカル湖のほうには存在するが、中国南部のほうには存在しなかったので、他の場所から伝わってきたとすれば、バイカル湖のほうから伝わってきたことになります。

Initial Upper Paleolithic(後期旧石器時代の初期)の石刃技法が中東→中央アジア→バイカル湖周辺と快調に進んできた、しかしその先には石刃技法による新型の石器ではなく旧型の石器が広がっていたというのは、一体どういうことでしょうか。最も自然なのは、石刃技法を用いるInitial Upper Paleolithic(後期旧石器時代の初期)の担い手が東アジアに到達した時には、すでに東アジアに石刃技法を用いない人々がいたという解釈です。Initial Upper Paleolithic(後期旧石器時代の初期)の担い手が石刃技法による新型の石器づくりを突然やめて、旧型の石器づくりに戻ったと考えるのは、あまりに奇妙です。その後の東アジアでも、石刃技法による新型の石器づくりは広まる一方だったのです。

石刃技法が40000~43000年前頃にバイカル湖周辺に到着し、同技法が35000~40000年前頃から東アジアに現れる(Bae K. 2010、Bae C. J. 2012)というのは、タイミング的にぴったり合います。K. Bae氏はバイカル湖方面からやって来た人々と中国南部・東南アジア方面からやって来た人々が混ざり合っていったと考えていますが、筆者もその通りであろうと考えています。ただ、筆者は、バイカル湖方面からやって来た人々は少数派で、中国南部・東南アジア方面からやって来た人々が多数派だったのではないかと考えています(筆者がそのように考える根拠は別のところで述べます)。

東アジアの人々の本質、アフリカから東アジアに至る二つの道の記事で示したように、4.5~5万年前頃の中東でInitial Upper Paleolithic(後期旧石器時代の初期)という一大革命が起きる前に、中東→南アジア→東南アジア→パプアニューギニア・オーストラリアと移動していった人々がいます。東南アジアからパプアニューギニア・オーストラリア方面に向かう人々がいる一方で、東南アジアから中国方面に向かう人々もいて、この人々が、バイカル湖方面からやって来るInitial Upper Paleolithic(後期旧石器時代の初期)の担い手よりもいくらか早く東アジアに到達していたと見られます。

日本の縄文時代が始まるのは16000年前ぐらいですが、それよりはるかに前から東アジアでは上に述べたようなことが起きていたのです。日本の沖縄県の港川で2万年以上前(最新の基準では20000~22000年前ぐらい)のものと推定される人骨が発見され、最新の技術を用いて顔を復元したところ、縄文時代の人々とはかなり異なるオーストラリアのアボリジニのような顔になったというニュースがありました(朝日新聞2010)。以下はその港川人の顔の復元図です(国立科学博物館様のウェブサイトより引用)。

これも不可解なことではありません。この港川人は2万年前頃の人ですが、東南アジアではもっともっと後の時代までパプアニューギニア・オーストラリア風の人々が見られたようです。松村博文氏らは、黄河文明・長江文明の担い手が押し寄せてくる前と押し寄せてきた後の東南アジアの人々の歯の形状を精密に調べ、かつての東南アジアの人々の歯の形状がパプアニューギニア・オーストラリアの人々の歯の形状に近かったことを明らかにしています(Matsumura 2014)。「今東アジアにいる人々」と「今東南アジアにいる人々」ではなく、「今東南アジアいる人々」と「かつて東南アジアにいた人々」が大きく異なっています。歯の研究だけでなく、頭蓋骨の研究でも、中国南部・東南アジアにいたパプアニューギニア・オーストラリア風の人々が圧倒されていく構図が明らかにされています(Matsumura 2019)。現在では、フィリピンのアエタ族やマレーシアのセマン族など、ネグリトと呼ばれるごく少数の人々が、パプアニューギニア・オーストラリアの人々との共通性をやや強く残しています。私たちが見ているのは、黄河文明・長江文明の担い手が大きく拡散した後の世界なのです。

冒頭の地図のように東アジアで4万年前頃から始まった北側ルートの人々と南側ルートの人々の出会いは、言語の歴史という観点からも重要です。

石器が一番よく残るので石器の話が主になりますが、Initial Upper Paleolithic(後期旧石器時代の初期)の担い手である北側ルートの人々は、石器だけでなく、その他の様々な点でも、南側ルートの人々より先進的であったと見られます。一例として、衣類のことを考えてみてください。アフリカを出て中東、南アジア、東南アジアと熱帯を移動していくぶんには、裸でもいいかもしれません。しかし、北ユーラシアでは、そうはいきません(人類が服を着た当初の主な理由は「防寒」で、そこにもうそれ以前から人類が示していた装飾の性格が加わったのかもしれません。ともかく、アフリカ育ちの人類がシベリアなどを裸で生き抜くのはとても無理だったでしょう)。故郷のアフリカと全然違う状況・環境の中を進んでいったのは、北側ルートの人々です。そのような中でいろいろと新しいもの・新しいことを考え出さなければならなかったのも、北側ルートの人々です。

北側ルートの人々と南側ルートの人々が出会ったところでは、先進的な北側ルートの人々の言語が採用されたと考えられます。北側ルートの人々が南側ルートの人々より少なくてもそうです(現在世界最大の勢力になっているインド・ヨーロッパ語族のおおもとの言語も、少人数によって話されていた言語です。インド・ヨーロッパ語族の言語の話者がなんらかの先進性を有していたために、インド・ヨーロッパ語族の言語の話者に接触した人々が順々にインド・ヨーロッパ語族の言語に乗り換えていったのです)。東アジアは北側ルートの人々の言語に支配されていったことでしょう。

人類の歴史では、ある人間集団が他の人間集団より先進的な(あるいは優位な)立場に立つことがたびたびありました。このことは、もちろん言語の歴史に非常に大きな影響を与えてきました。しかしそれだけでなく、実は男女の歴史にも非常に大きな影響を与えてきました。あまり論じられてこなかったことなので、ここで論じることにします。例として、北側ルートの人々と南側ルートの人々が出会ったところでなにが起きたのか、特に男女関係に焦点を当てながら、さらに深く探ります。

 

参考文献

日本語

朝日新聞、「港川人、縄文人と似ず 顔立ち復元、独自の集団か」、2010年6月28日。

※朝日新聞の上記記事はすでにインターネットで読めなくなっているようです。

英語

Bae C. J. et al. 2012. The nature of the Early to Late Paleolithic transition in Korea: Current perspectives. Quaternary International 281: 26-35.

Bae K. 2010. Origin and patterns of the Upper Paleolithic industries in the Korean Peninsula and movement of modern humans in East Asia. Quaternary International 211: 103-112.

Matsumura H. et al. 2014. Demographic transitions and migration in prehistoric East/Southeast Asia through the lens of nonmetric dental traits. American Journal of Physical Anthropology 155(1): 45-65.

Matsumura H. et al. 2019. Craniometrics reveal “two layers” of prehistoric human dispersal in eastern Eurasia. Scientific Reports 9(1): 1451.