熾烈な歴史、子孫を残す少数の男と多数の女

モンゴル帝国の初代皇帝であるチンギス・ハーンは世界的に有名な人物ですが、彼とその男の子孫たちは大勢の子どもを残しました(Zerjal 2003)。北ユーラシアのY染色体DNAの分布にいくらか変化が生じるほどのインパクトがありました。

チンギス・ハーンたちの行動が異常だったのかというと、そういうわけではないようです。黄河文明が栄えていた頃に生きていたほんの三人の男性のY染色体DNAが、現代の中国人男性の40パーセントに受け継がれているという研究もあります(Yan 2014)。これもおそらく権力者からの拡散があったのでしょう。

筆者が古代から現代までのミトコンドリアDNAとY染色体DNAに関する膨大な研究を見て思ったのは、人類ではもともと、子どもづくりに参加する女性より子どもづくりに参加する男性が少なく、男性のほうに力関係(権力、武力)あるいは物質的豊かさの点で大きな差が存在すると、少数の男と多数の女による子どもづくりの傾向が顕著に強まるのではないかということでした。

上のチンギス・ハーンや黄河文明の権力者の例は、もともと人類にあった傾向が端的に現れた例ではないかというわけです。

アメリカ大陸のインディアンのミトコンドリアDNAとY染色体DNAの話を思い出してください。アメリカ大陸のインディアンの研究には、古代北ユーラシアの姿を知るという重大な意味があります。アメリカ大陸のインディアンには、A、B、C、D、Xという五系統のミトコンドリアDNAとQ、Cという二系統のY染色体DNAが見られます(O’Rourke 2010)。この中で、ミトコンドリアDNAのX系統とY染色体DNAのC系統は、アメリカ大陸のどこにでも見られるわけではなく、分布が限られています。ミトコンドリアDNAのX系統は、北米の一部に低率で見られるだけです(Derenko 2001)。Y染色体DNAのC系統は、南米にもほんの少し存在しますが、やはりほぼ北米(特にアラスカとその近く)に限られています(Zegura 2004)。

南米のインディアンに限って見れば、ミトコンドリアDNAはA、B、C、Dの四系統、Y染色体DNAはほぼQの一系統のみという構成になっています。南米のインディアンは、古い時代にユーラシア大陸の北東部からアメリカ大陸に入っていった人々であると考えられるので(閉ざされていたアメリカ大陸への道の記事でお話ししたように、南米では14500年前頃から遺跡が見られ始めます)、南米のインディアンのミトコンドリアDNAとY染色体DNAは、古い時代のユーラシア大陸の北東部の状況をよく映し出していると見られます。

ミトコンドリアDNAのA系統、B系統、C系統、D系統とY染色体DNAのQ系統が支配し、その他の系統はあっても微々たる程度にすぎないという状況が、古い時代のユーラシア大陸の北東部に存在したと考えられます。ミトコンドリアDNAのA系統、B系統、C系統、D系統はどこからやって来たのでしょうか。Y染色体DNAのQ系統はどこからやって来たのでしょうか。

Y染色体DNAのQ系統については、一貫性を示す古代北ユーラシアの人々のDNAの記事で示したように、中東→中央アジア→バイカル湖周辺(さらに北ユーラシア全体)という流れに属することが明瞭なので、ミトコンドリアDNAのA系統、B系統、C系統、D系統がどこからやって来たのか考えましょう。

ミトコンドリアDNAのM系統とN系統から考える

アフリカに見られるミトコンドリアDNAのL3系統から、アフリカの外に見られるM系統とN系統が生まれたことは、すでに述べました。M系統とN系統というのは巨大なくくりで、アフリカの外に見られるミトコンドリアDNAはすべてM系統かN系統のどちらかに属します。A系統とB系統はN系統のほうに属する下位系統で、C系統とD系統はM系統のほうに属する下位系統です。

ミトコンドリアDNAのN系統とM系統がアフリカの外の世界にどのように分布しているか見ると、大変興味深いことがわかります。N系統はアフリカの外の世界のどこにでもよく見られますが、M系統はアフリカの外の世界で非常に偏った分布を見せています。M系統は南アジアおよびそれより東(つまり東アジア・東南アジアを含む東ユーラシア、南北アメリカ大陸、オセアニア)に偏在しているのです。

例外的なのは特にアフリカの東部に見られるM系統(より詳しくはM1系統)ですが、アフリカのM系統はアジアのM系統ほどの深い歴史は持っておらず、アジアに存在したM系統の一部がアフリカに戻ったと考えられています(González 2007)。Initial Upper Paleolithic(後期旧石器時代の初期)の話の中でU系統の一部(U6系統)が中東からアフリカに戻ったことをお話ししましたが(Olivieri 2006)、同じようにM系統の一部(M1系統)も中東からアフリカに戻ったということです。

※人類が進出してまもない頃のヨーロッパでミトコンドリアDNAのM系統が少し見られたこともありましたが、その後消滅してしまいました(Posth 2016)。

アフリカの外の世界のどこにでもよく見られるN系統と違い、連続的でありながら限定的な分布の仕方をしているM系統は、どのように拡散したかが見通しやすいです。M系統は以下のように拡散したと考えられます。

ミトコンドリアDNAのC系統とD系統がM系統に属する下位系統であることはすでに述べました。このことからつまり、古い時代にユーラシア大陸の北東部に存在したC系統とD系統は、中東→南アジア→東南アジア→東アジア→シベリアという流れに属するものであるということになります。古い時代のユーラシア大陸の北東部で支配的だったA系統、B系統、C系統、D系統のうちの少なくともC系統とD系統は、中東→南アジア→東南アジア→東アジア→シベリアという流れに属するということです。

A系統とB系統はどうでしょうか。N系統に属するA系統とB系統に関しては、C系統とD系統の場合のように容易に判断することはできません。一貫性を示す古代北ユーラシアの人々のDNAの記事で示したように、N系統は中東から北ユーラシア方面にも、パプアニューギニア・オーストラリア方面にも拡散しています。古い時代のユーラシア大陸の北東部に存在したA系統とB系統は、北側ルート(中央アジア経由)の流れに属するものかもしれないし、南側ルート(東南アジア経由)の流れに属するものかもしれません。

一貫性を示す古代北ユーラシアの人々のDNAの記事でお話ししたように、日本の近辺で発見された現生人類として最も古い北京郊外の田園洞遺跡で発見された4万年前の男性は、B系統のミトコンドリアDNAを持っていました。4万年前の東アジアの記事でバイカル湖方面からやって来る人々と中国南部・東南アジア方面からやって来る人々が混ざり合う話をしましたが、田園洞の男性がいたのはちょうどそのあたりで、田園洞の男性のB系統のミトコンドリアDNAが北側ルート(中央アジア経由)の流れに属するのか、南側ルート(東南アジア経由)の流れに属するのかきわどいところです。長くなるので、ここでいったん切ります。

 

参考文献

Derenko M. V. et al. 2001. The presence of mitochondrial haplogroup X in Altaians from South Siberia. American Journal of Human Genetics 69(1): 237-241.

González A. M. et al. 2007. Mitochondrial lineage M1 traces an early human backflow to Africa. BMC Genomics 8: 223.

Olivieri A. et al. 2006. The mtDNA legacy of the Levantine early Upper Palaeolithic in Africa. Science 314(5806): 1767-1770.

O’Rourke D. H. et al. 2010. The human genetic history of the Americas: The final frontier. Current Biology 20(4): R202-R207.

Posth C. et al. 2016. Pleistocene mitochondrial genomes suggest a single major dispersal of non-Africans and a Late Glacial population turnover in Europe. Current Biology 26(6): 827-833.

Yan S. et al. 2014. Y chromosomes of 40% Chinese descend from three Neolithic super-grandfathers. PLoS One 9(8): e105691.

Zegura S. L. et al. 2004. High-resolution SNPs and microsatellite haplotypes point to a single, recent entry of Native American Y chromosomes into the Americas. Molecular Biology and Evolution 21(1): 164-175.

Zerjal T. et al. 2003. The genetic legacy of the Mongols. American Journal of Human Genetics 72(3): 717-721.

4万年前の東アジア

中東のレバント地方で始まった先進的なInitial Upper Paleolithic(後期旧石器時代の初期)が中央アジアを経由して40000~43000年前頃にバイカル湖周辺に到達したことはお話ししました。

バイカル湖周辺に到達したInitial Upper Paleolithic(後期旧石器時代の初期)がその後どうなったのかというのは非常に興味深いところですが、やはりその頃から東アジアでも変化が起き始めていました。しかし、やや複雑な様相を呈していました。

以下の図は、当時の東アジアの状況について考察している人類学者・考古学者のK. Bae氏の論文(Bae K. 2010)から引用したものです。

(K. Bae氏は現代の地図を使って作図していますが、4万年前頃は今より海面が低く、中国東海岸地域、朝鮮半島、台湾の間は陸地でした。図中のBladeは石刃、Microbladeは細石刃、Non-bladeは非石刃という意味です。)

K. Bae氏は朝鮮半島の遺跡を中心に東アジアの歴史を考察していますが、当時は、バイカル湖のほうにはInitial Upper Paleolithic(後期旧石器時代の初期)の石刃技法(東アジアの人々の本質、アフリカから東アジアに至る二つの道を参照)による新型の石器が分布、中国南部のほうにはInitial Upper Paleolithic(後期旧石器時代の初期)を経験していない旧型の石器が分布し、朝鮮半島のあたりでは旧型の石器にまじって新型の石器が現れてくるという状況になっていました(Bae K. 2010)。

旧型の石器にまじって新型の石器が現れてくる状況をどのように解釈したらよいかという点で、人類学者・考古学者の意見が分かれました(Bae C. J. 2012)。東アジアに現れ始めた石刃技法による新型の石器は、東アジアで生まれたのだという意見と、他の場所から伝わってきたのだという意見です。石刃技法による新型の石器はバイカル湖のほうには存在するが、中国南部のほうには存在しなかったので、他の場所から伝わってきたとすれば、バイカル湖のほうから伝わってきたことになります。

Initial Upper Paleolithic(後期旧石器時代の初期)の石刃技法が中東→中央アジア→バイカル湖周辺と快調に進んできた、しかしその先には石刃技法による新型の石器ではなく旧型の石器が広がっていたというのは、一体どういうことでしょうか。最も自然なのは、石刃技法を用いるInitial Upper Paleolithic(後期旧石器時代の初期)の担い手が東アジアに到達した時には、すでに東アジアに石刃技法を用いない人々がいたという解釈です。Initial Upper Paleolithic(後期旧石器時代の初期)の担い手が石刃技法による新型の石器づくりを突然やめて、旧型の石器づくりに戻ったと考えるのは、あまりに奇妙です。その後の東アジアでも、石刃技法による新型の石器づくりは広まる一方だったのです。

石刃技法が40000~43000年前頃にバイカル湖周辺に到着し、同技法が35000~40000年前頃から東アジアに現れる(Bae K. 2010、Bae C. J. 2012)というのは、タイミング的にぴったり合います。K. Bae氏はバイカル湖方面からやって来た人々と中国南部・東南アジア方面からやって来た人々が混ざり合っていったと考えていますが、筆者もその通りであろうと考えています。ただ、筆者は、バイカル湖方面からやって来た人々は少数派で、中国南部・東南アジア方面からやって来た人々が多数派だったのではないかと考えています(筆者がそのように考える根拠は別のところで述べます)。

東アジアの人々の本質、アフリカから東アジアに至る二つの道の記事で示したように、4.5~5万年前頃の中東でInitial Upper Paleolithic(後期旧石器時代の初期)という一大革命が起きる前に、中東→南アジア→東南アジア→パプアニューギニア・オーストラリアと移動していった人々がいます。東南アジアからパプアニューギニア・オーストラリア方面に向かう人々がいる一方で、東南アジアから中国方面に向かう人々もいて、この人々が、バイカル湖方面からやって来るInitial Upper Paleolithic(後期旧石器時代の初期)の担い手よりもいくらか早く東アジアに到達していたと見られます。

日本の縄文時代が始まるのは16000年前ぐらいですが、それよりはるかに前から東アジアでは上に述べたようなことが起きていたのです。日本の沖縄県の港川で2万年以上前(最新の基準では20000~22000年前ぐらい)のものと推定される人骨が発見され、最新の技術を用いて顔を復元したところ、縄文時代の人々とはかなり異なるオーストラリアのアボリジニのような顔になったというニュースがありました(朝日新聞2010)。以下はその港川人の顔の復元図です(国立科学博物館様のウェブサイトより引用)。

これも不可解なことではありません。この港川人は2万年前頃の人ですが、東南アジアではもっともっと後の時代までパプアニューギニア・オーストラリア風の人々が見られたようです。松村博文氏らは、黄河文明・長江文明の担い手が押し寄せてくる前と押し寄せてきた後の東南アジアの人々の歯の形状を精密に調べ、かつての東南アジアの人々の歯の形状がパプアニューギニア・オーストラリアの人々の歯の形状に近かったことを明らかにしています(Matsumura 2014)。「今東アジアにいる人々」と「今東南アジアにいる人々」ではなく、「今東南アジアいる人々」と「かつて東南アジアにいた人々」が大きく異なっています。歯の研究だけでなく、頭蓋骨の研究でも、中国南部・東南アジアにいたパプアニューギニア・オーストラリア風の人々が圧倒されていく構図が明らかにされています(Matsumura 2019)。現在では、フィリピンのアエタ族やマレーシアのセマン族など、ネグリトと呼ばれるごく少数の人々が、パプアニューギニア・オーストラリアの人々との共通性をやや強く残しています。私たちが見ているのは、黄河文明・長江文明の担い手が大きく拡散した後の世界なのです。

冒頭の地図のように東アジアで4万年前頃から始まった北側ルートの人々と南側ルートの人々の出会いは、言語の歴史という観点からも重要です。

石器が一番よく残るので石器の話が主になりますが、Initial Upper Paleolithic(後期旧石器時代の初期)の担い手である北側ルートの人々は、石器だけでなく、その他の様々な点でも、南側ルートの人々より先進的であったと見られます。一例として、衣類のことを考えてみてください。アフリカを出て中東、南アジア、東南アジアと熱帯を移動していくぶんには、裸でもいいかもしれません。しかし、北ユーラシアでは、そうはいきません(人類が服を着た当初の主な理由は「防寒」で、そこにもうそれ以前から人類が示していた装飾の性格が加わったのかもしれません。ともかく、アフリカ育ちの人類がシベリアなどを裸で生き抜くのはとても無理だったでしょう)。故郷のアフリカと全然違う状況・環境の中を進んでいったのは、北側ルートの人々です。そのような中でいろいろと新しいもの・新しいことを考え出さなければならなかったのも、北側ルートの人々です。

北側ルートの人々と南側ルートの人々が出会ったところでは、先進的な北側ルートの人々の言語が採用されたと考えられます。北側ルートの人々が南側ルートの人々より少なくてもそうです(現在世界最大の勢力になっているインド・ヨーロッパ語族のおおもとの言語も、少人数によって話されていた言語です。インド・ヨーロッパ語族の言語の話者がなんらかの先進性を有していたために、インド・ヨーロッパ語族の言語の話者に接触した人々が順々にインド・ヨーロッパ語族の言語に乗り換えていったのです)。東アジアは北側ルートの人々の言語に支配されていったことでしょう。

人類の歴史では、ある人間集団が他の人間集団より先進的な(あるいは優位な)立場に立つことがたびたびありました。このことは、もちろん言語の歴史に非常に大きな影響を与えてきました。しかしそれだけでなく、実は男女の歴史にも非常に大きな影響を与えてきました。あまり論じられてこなかったことなので、ここで論じることにします。例として、北側ルートの人々と南側ルートの人々が出会ったところでなにが起きたのか、特に男女関係に焦点を当てながら、さらに深く探ります。

 

参考文献

日本語

朝日新聞、「港川人、縄文人と似ず 顔立ち復元、独自の集団か」、2010年6月28日。

※朝日新聞の上記記事はすでにインターネットで読めなくなっているようです。

英語

Bae C. J. et al. 2012. The nature of the Early to Late Paleolithic transition in Korea: Current perspectives. Quaternary International 281: 26-35.

Bae K. 2010. Origin and patterns of the Upper Paleolithic industries in the Korean Peninsula and movement of modern humans in East Asia. Quaternary International 211: 103-112.

Matsumura H. et al. 2014. Demographic transitions and migration in prehistoric East/Southeast Asia through the lens of nonmetric dental traits. American Journal of Physical Anthropology 155(1): 45-65.

Matsumura H. et al. 2019. Craniometrics reveal “two layers” of prehistoric human dispersal in eastern Eurasia. Scientific Reports 9(1): 1451.

一貫性を示す古代北ユーラシアの人々のDNA

ベーリング地方の近くに位置するYana RHS遺跡で発見された二人の男性のミトコンドリアDNAはU系統で、Y染色体DNAはP系統であることが判明しました(Sikora 2019)。

※女性だけでなく男性も自分の母親からもらったミトコンドリアDNAを持っています。ただし、男性の場合は、そのミトコンドリアDNAを子どもに伝えることができません。

ミトコンドリアDNAのU系統も、Y染色体DNAのP系統も、日本ではなじみがありませんが、人類の歴史を考える際には非常に重要な系統です。まずは、ミトコンドリアDNAのU系統に注目しましょう。

前回の記事では、4.5~5万年前頃から中東のレバント地方(今のシリア、レバノン、ヨルダン、イスラエルのあたり)でInitial Upper Paleolithic(後期旧石器時代の初期)と呼ばれる動きが始まり、この先進的な動きがヨーロッパとアフリカ北東部に拡散したことをお話ししました。

現在のヨーロッパではミトコンドリアDNAのH系統の割合が最も高くなっていますが(Achilli 2004)、人類が進出してまもない頃のヨーロッパではミトコンドリアDNAのU系統が支配的でした(Soares 2010、Posth 2016)。

中東のレバント地方からヨーロッパとアフリカ北東部にInitial Upper Paleolithic(後期旧石器時代の初期)を拡散させた人々の主なミトコンドリアDNAがU系統であったと考えられています(Maca-Meyer 2001、Olivieri 2006)。

※アフリカに見られるミトコンドリアDNAのL3系統から、アフリカの外に見られるM系統とN系統が生まれました。そして、N系統の一下位系統としてR系統が生まれ、R系統の一下位系統としてU系統が生まれました。

4.5~5万年前頃に中東のレバント地方で支配的だったミトコンドリアDNAのU系統がすぐにヨーロッパとアフリカ北東部に入り込んだのはわかりますが、そのU系統が遅くとも3万年前頃にユーラシア大陸のほぼ最北東部といってよいYana RHS遺跡に到達していたというのは驚きです。

しかし、この発見は、バイカル湖の近くに位置するロシアのMal’ta(マリタ)で発見された2.4万年前の男の子のミトコンドリアDNAがU系統であったこと(Raghavan 2014)、そして中央アジアの北のほうに位置するロシアのUst’-Ishim(ウスチイシム)で発見された4.5万年前の男性のミトコンドリアDNAがR系統(つまりU系統の一段階前のタイプ)であったこと(Fu 2014)とよく合います。

ちなみに、日本の近辺で発見された現生人類として最も古いのは、以前に言及した北京郊外の田園洞遺跡で発見された4万年前の男性ですが、この男性のミトコンドリアDNAはB系統でした(Fu 2013)。上で説明したように、U系統はR系統の一下位系統ですが、B系統もR系統の一下位系統です。このことは注意を引きます。しかし、もとのR系統は人類がアフリカを出て早い段階で発生しており、パプアニューギニア・オーストラリアに見られるP系統もR系統の一下位系統です。そのため、田園洞の男性のミトコンドリアDNAのB系統が中央アジアのほうから来たのか、東南アジアのほうから来たのかという問題は慎重に検討する必要があります。

これまでに発見されている古代北ユーラシアの人間の骨または歯はわずかですが、ミトコンドリアDNAのN系統、R系統およびその下位系統が中東から北ユーラシアに広がっていく様子が見えそうです。

1 Ust’-Ishim 2 田園洞 3 Yana RHS 4 Mal’ta

ミトコンドリアDNAだけでなく、Y染色体DNAにも一貫性が感じられます。Ust’-Ishimの男性のY染色体DNAはK系統(Fu 2014)、田園洞の男性のY染色体DNAは発表されていませんが、Yana RHSの二人の男性のY染色体DNAはP系統(Sikora 2019)、Mal’taの男の子のY染色体DNAはR系統でした(Raghavan 2014)。K系統の一下位系統としてP系統があり、P系統の下位系統としてアメリカ大陸のインディアンで支配的なQ系統とMal’taの男の子のR系統があります。もととなったK系統はI系統とJ系統と近縁で、I系統はヨーロッパを中心に分布し、J系統は中東を中心に分布しています(Rootsi 2004、Semino 2004)。やはり、中東から北ユーラシア全体への拡散があったことを窺わせます。遺跡の多いアルタイ山脈周辺とバイカル湖周辺は、その拡散において重要な役割を果たしたのでしょう。

※上記の五人の古代人男性のほかに、バイカル湖のいくらか右下に位置するモンゴルのSalkhit(サルヒト)でも、性別不明ながらN系統のミトコンドリアDNAを持つ3.4万年前の人物が発見されています(Devièse 2019)。

こうなると気になるのは、中東→中央アジア→バイカル湖周辺と拡散してきたInitial Upper Paleolithic(後期旧石器時代の初期)の担い手たちは、中国、朝鮮、日本方面にどのような影響を与えたのかということです。前回の記事でお話ししたように、中東で始まった先進的なInitial Upper Paleolithic(後期旧石器時代の初期)は40000~43000年前頃にはバイカル湖周辺に到達しているので、ちょうどその頃、そしてその少し後の東アジアでなにが起きていたか調べなければなりません。4万年前頃の東アジアはどのようになっていたのでしょうか。

※現在のヨーロッパを大きく支配しているのはY染色体DNAのR系統(R1a系統とR1b系統)で、インド・ヨーロッパ語族はこのR系統と深い関係があるのではないかと注目されてきました(Manco 2015)。上に示した古代北ユーラシアの人々のY染色体DNAを見ると、R系統とインド・ヨーロッパ語族の根源がヨーロッパからかなり離れたところにありそうなことがわかります。Mal’taの男の子のY染色体DNAは、R1a、R1bあるいはこれらの共通祖先であるR1に分類されるための変異を起こしておらず、R系統の中で原初的なタイプです(Raghavan 2014)。

 

参考文献

Achilli A. et al. 2004. The molecular dissection of mtDNA haplogroup H confirms that the Franco-Cantabrian glacial refuge was a major source for the European gene pool. American Journal of Human Genetics 75(5): 910-918.

Devièse T. et al. 2019. Compound-specific radiocarbon dating and mitochondrial DNA analysis of the Pleistocene hominin from Salkhit Mongolia. Nature Communications 10(1): 274.

Fu Q. et al. 2013. DNA analysis of an early modern human from Tianyuan Cave, China. Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America 110(6): 2223-2227.

Fu Q. et al. 2014. Genome sequence of a 45,000-year-pld modern human from western Siberia. Nature 514(7523): 445-449.

Maca-Meyer N. et al. 2001. Major genomic mitochondrial lineages delineate early human expansions. BMC Genetics 2: 13.

Manco J. 2015. Ancestral Journeys: The Peopling of Europe from the First Venturers to the Vikings. Thames & Hudson.

Olivieri A. et al. 2006. The mtDNA legacy of the Levantine early Upper Palaeolithic in Africa. Science 314(5806): 1767-1770.

Posth C. et al. 2016. Pleistocene mitochondrial genomes suggest a single major dispersal of non-Africans and a Late Glacial population turnover in Europe. Current Biology 26(6): 827-833.

Raghavan M. et al. 2014. Upper Palaeolithic Siberian genome reveals dual ancestry of Native Americans. Nature 505(7481): 87-91.

Rootsi S. et al. 2004. Phylogeography of Y-chromosome haplogroup I reveals distinct domains of prehistoric gene flow in Europe. American Journal of Human Genetics 75(1): 128-137.

Semino O. et al. 2004. Origin, diffusion, and differentiation of Y-chromosome haplogroups E and J: Inferences on the neolithization of Europe and later migratory events in the Mediterranean area. American Journal of Human Genetics 74(5): 1023-1034.

Sikora M. et al. 2019. The population history of northeastern Siberia since the Pleistocene. Nature 570(7760): 182-188.

Soares P. et al. 2010. The Archaeogenetics of Europe. Current Biology 20(4): R174-R183.