東アジアの人々の本質、アフリカから東アジアに至る二つの道

人類学者・考古学者のT. Goebel氏がGoebel 2015で述べている説は、これまでほとんど注目されてこなかった説です。Goebel氏自身も、以前から述べているがなかなか注目されないと記しています。この説は、アフリカを出た人類がまもなく中央アジアに向かい、そこからさらに東アジアに向かったと主張しています。

冷静に考えれば、この説は突拍子もない説ではありません。アフリカから中東に出た人類が次にどこに向かうかといえば、(1)アフリカに戻る、(2)ヨーロッパに向かう、(3)コーカサスに向かう(4)中央アジアに向かう、(5)南アジア・東南アジアに向かうの五つしか可能性がないからです(コーカサスというのは、ヨーロッパと中央アジアの間にある黒海とカスピ海に挟まれた地域です)。実際、Goebel氏はGoebel 2007で以下のような図を示していました。

上の図は、人類がアフリカを出た後、まず青い線の動きがあり、しばらくして赤い線の動きがあったことを示しています。中東からヨーロッパに向かうルートと、中東から南アジア、東南アジア、パプアニューギニア・オーストラリアに向かうルートが圧倒的な注目を集め、すっかりその陰に隠れてきましたが、中東→中央アジア→バイカル湖周辺というルートがあることに注目してください。

※アルタイ山脈とバイカル湖という名前は聞いたことがあると思いますが、位置がわからない方は以下の地図で確認してください(地図はwww.freeworldmaps.net様のウェブサイトより引用)。

今のモンゴルの一番西の部分を斜めに走っているのがアルタイ山脈で、モンゴルのすぐ上にあるのがバイカル湖です。アルタイ山脈周辺とバイカル湖周辺は人類の歴史を通じて重要な遺跡がたくさん出てくるところなので、大体の位置を頭に入れておいてください。

中東は1万年ぐらい前に農耕・牧畜が始まった地域で、そのことはよく知られていますが、中東が人類の歴史において大きな役割を果たしたのは、これが初めてではありません。

冒頭の地図にKsar Akil(クサルアキル)という遺跡名が書き込まれていますが、このあたりはLevant(レバント)と呼ばれます。今のシリア、レバノン、ヨルダン、イスラエルがあるあたりです。4.5~5万年前頃から、レバントでInitial Upper Paleolithicと呼ばれる動きが見られ始めます(Goebel 2015)。Initial Upper Paleolithicは、Middle Paleolithic(中期旧石器時代)からUpper Paleolithic(後期旧石器時代)に移り始める段階を指しますが、ここでは「後期旧石器時代の初期」と表現しておきましょう。

※Upper Paleolithic(後期旧石器時代)という言い方に違和感を感じるかもしれませんが、これは考古学的発掘調査で後の時代のものほど上に位置しているためです。Lower Paleolithic(前期旧石器時代)、Middle Paleolithic(中期旧石器時代)、Upper Paleolithic(後期旧石器時代)のように言います。

Initial Upper Paleolithic(後期旧石器時代の初期)の頃から、現生人類がネアンデルタール人などの旧人類を圧倒し始め、現生人類の独壇場になっていきます。Initial Upper Paleolithic(後期旧石器時代の初期)の最大の特徴は、石刃技法によって石器作りが高度化したことですが、石のほかに動物の骨・角が用いられたことや、実用性とは異なる装飾・芸術の性格を持つ品が作られたことも大きな特徴です(Kuhn 2003)。

※石刃技法は基本的に、もととなる石の上部を割って平らな面を作り出し、その平らな面の周縁部に上から打撃を加え、縦長のかけらを剥がし取っていきます。こうして大量に生産された剥片に、必要に応じた二次加工が施されます。

(図はAndrews B. W. 2016. Stone tools in Mesoamerica: Flaked stone tools. In Selin H., ed., Encyclopaedia of the history of science, technology, and medicine in non-western cultures, Springerより引用)

複数の手順から成る体系的方法を確立する段階に入っており、近い将来に大きな発展が起きることを予感させます。

このような特徴を持つ先進的なInitial Upper Paleolithic(後期旧石器時代の初期)はすぐに拡散し始めました。冒頭の地図のように、Initial Upper Paleolithic(後期旧石器時代の初期)はヨーロッパとアフリカ北東部に拡散しましたが、それだけでなく、驚くべきことに中央アジア、そしてさらにバイカル湖周辺にも拡散しました(冒頭の地図の赤い点は後期旧石器時代の初期~早期の遺跡を示しています)。この拡散はかなり速く、現在では、Initial Upper Paleolithic(後期旧石器時代の初期)が43000~45000年前頃にアルタイ山脈周辺に到達し、40000~43000年前頃にバイカル湖周辺に到達していたことがわかっています(Rybin 2014)。

冒頭の地図の右上のほうに赤い点が一つだけありますが、これは以前にベーリング陸橋、危ない橋を渡った人々の記事でお話ししたYana RHS遺跡の近辺です。V. V. Pitulko氏らが2004年に発表した3万年前頃のものと推定されるYana RHS遺跡は、大きな驚きを与えました(Pitulko 2004)。そんな古い時代に北極地方に人間がいたとは考えられていなかったからです。しかし、その後も各地で調査が進み、ユーラシア大陸の高緯度地方で貴重な発見が続いています。

中央アジアの北のほうに位置するロシアのUst’-Ishim(ウスチイシム)では、4.5万年前頃のものと推定される現生人類の男性の骨が発見されました(Fu 2014)。ちなみに、Ust’-Ishimの西のほうに位置するウラル山脈でも、少なくとも4万年前頃から現生人類の遺跡が認められています(4万年以上前の遺跡については、現生人類のものかどうか判断が保留されています)(Svendsen 2010)。

Ust’-Ishimの男性の骨の発見は、センセーショナルな出来事でした。それまでに知られていた古代北ユーラシアの人骨といえば、バイカル湖の近くに位置するロシアのMal’ta(マリタ)で発見された2.4万年前頃のものと推定される男の子の骨が最古でした(Raghavan 2014)。人骨はそうそう見つからないのです。

Ust’-Ishimの男性とMal’taの男の子のDNAはすでに詳しく調べられていますが、最近ついに上述のYana RHS遺跡(冒頭の地図の右上のほう)で発見された二人の男性のDNAが分析にかけられました(Sikora 2019)。

その結果は、大変興味深いものでした。

なぜ古代北ユーラシアにヨーロッパから東アジアに至るまでの広大な領域を覆う巨大な言語群が存在したのでしょうか。

 

参考文献

Fu Q. et al. 2014. Genome sequence of a 45,000-year-old modern human from western Siberia. Nature 514(7523): 445-449.

Goebel T. 2007. The missing years for modern humans. Science 315(5809): 194-196.

Goebel T. 2015. The overland dispersal of modern humans to Eastern Asia: An alternative, northern route from Africa. In Kaifu Y. et al., eds., Emergence and diversity of modern human behavior in Paleolithic Asia, Texas A&M University Press, 437-452.

Kuhn S. L. 2003. In what sense is the Levantine Initial Upper Paleolithic a “transitional” industry? In Zilhão J. et al., eds., The chronology of the Aurignacian and of the transitional technocomplexes: Dating, stratigraphies, cultural implications, Instituto Português de Arqueologia, 61-69.

Pitulko V. V. et al. 2004. The Yana RHS site: Humans in the Arctic before the last glacial maximum. Science 303(5654): 52-56.

Raghavan M. et al. 2014. Upper Palaeolithic Siberian genome reveals dual ancestry of Native Americans. Nature 505(7481): 87-91.

Rybin E. P. 2014. Tools, beads, and migrations: Specific cultural traits in the Initial Upper Paleolithic of Southern Siberia and Central Asia. Quaternary International 347: 39-52.

Sikora M. et al. 2019. The population history of northeastern Siberia since the Pleistocene. Nature 570(7760): 182-188.

Svendsen J. I. et al. 2010. Geo-archaeological investigations of Palaeolithic sites along the Ural Mountains ― On the northern presence of humans during the last Ice Age. Quaternary Science Reviews 29(23-24): 3138-3156.

東アジアの人々は南方から北上してきたのか

私たちの種は、ネアンデルタール人などの旧人類と区別して、ホモ・サピエンスと呼ばれたり、Anatomically modern humans(解剖学的現代人)と呼ばれたりします。ここでは、後者の呼び方を用いることにします。

ミトコンドリアDNAとY染色体DNAの研究が発達し、現在では、AMHは15~20万年前頃にアフリカで誕生し、6万年前頃にアフリカを出たという考え方が主流です(Mellars 2006)。アフリカ以外の地域の人々のミトコンドリアDNAとY染色体DNAを調べると、6万年前かそれより若干前の頃の共通祖先に行きつき、アフリカを含めて全世界の人々のミトコンドリアDNAとY染色体DNAを調べると、15~20万年前頃の共通祖先に行きつきます(Maca-Meyer 2001、Macaulay 2005、Soares 2012、Poznik 2016、Haber 2019、Rito 2019)。

※AMHは15~20万年前頃にアフリカで誕生し、6万年前頃までアフリカから全く出なかったのかというと、そういうわけではないようです。イスラエルのSkhul(スクール)やQafzeh(カフゼー)では、6万年前よりかなり古いAMHのものと判断される人骨が見つかっています(Shea 2008)。どうやら、6万年前頃より早くにアフリカから出たAMHは、子孫を途切れず残して繁栄することに成功しなかったようです。

6万年前頃にアフリカから中東に出たAMHは、そこからどこに向かったのでしょうか。各分野の専門家の注目を集めてきたのは、(1)中東からヨーロッパに向かうルートと(2)中東から南アジア、東南アジア、パプアニューギニア・オーストラリアに向かうルートです。

中東からヨーロッパは近いですが、中東からパプアニューギニア・オーストラリアは遠いです。しかし、パプアニューギニア・オーストラリアには、4.5~5万年前頃からAMHの遺跡が見られるのです(当時は、パプアニューギニアとオーストラリアは陸続きで、サフール大陸という大陸を形成していました)(O’Connell 2015、O’Connell 2018)。これは、AMHがヨーロッパに現れるのと大体同じかそれより若干早いくらいです。

AMHが4.5~5万年前にパプアニューギニア・オーストラリアに辿り着いていたということは、その少し前に東南アジアに辿り着いていたはずです。ここから、東南アジアの人々が北上して東アジアの人々になったのだという説が唱えられるようになります。

東アジアの人々がどこからやって来たかを研究するB. Su氏、H. Shi氏、H. Zhong氏らのグループの一連の論文は、賛成か反対かはともかく、多くの学者の注目を集めてきました。Su 1999では、東アジアの人々のY染色体DNAを調べ、北部に見られるセットは南部に見られるセットの一部にすぎないという観察に基づいて、東アジアの人々は南方からやって来たという結論が出されました。しかし、この論文が書かれたのは、Y染色体DNAの研究が始まったばかりで、Y染色体DNAの各系統(各ハプログループ)がまだ細かく整理されていない時期でした。そのため、同論文には問題がありました。Su氏らは人類のY染色体DNAを17のハプログループ(H1~H17)に分類し、そのうちの8つ(H6~H13)をアジア特有として、この8つが東アジアにどのように分布しているか調べました。しかし、のちの観点からすると、Su氏らが調べた7つ(H6~H12)はO系統のもので、1つ(H13)はQ系統のものでした。つまり、Su氏らは実質的にO系統の拡散を調べていたのです。東アジアの人々はどこからやって来たかというより、Y染色体DNAのO系統はどのように拡散したかという問題になっていたのです。

2002年にY Chromosome Consortium(Y染色体コンソーシアム)という団体によってY染色体DNAの細かい系統図が発表されました(Y Chromosome Consortium 2002)。その後、Su氏、Shi氏、Zhong氏らは、東アジアの両極にあるチベットと日本にはよく見られるが、その間にはほとんど見られないY染色体DNAのD系統に注意を向けます。確かに、東アジアにおけるD系統の分布は特徴的です。かつて大きく広がっていた勢力が、新しく台頭した勢力によって分断されてしまったことを思わせます。Shi 2008では、D系統のShort tandem repeat(ショートタンデムリピート)の分析も行いながら、まずはD系統が南方から東アジアに広がり、後でO系統などの他の系統が南方から東アジアに広がったという結論が出されました(Short tandem repeatの分析はよく用いられる重要な手法なので、別のところで説明します)。

東アジアではO系統とD系統に加えてC系統が目立ちますが、C系統はZhong 2010で研究されています。C系統はオセアニア、東南アジア、東アジア、中央アジア、シベリア、北米の各地域にある程度の頻度で観察され、パプアニューギニア・オーストラリアでも高い率で見られます。C系統は、長い歴史を持ちますが、比較的よく足跡を残しており、研究のための材料・根拠に恵まれています。Zhong 2010では、C系統も南方から東アジアに広がったという結論が出されました。

アフリカ・中東方面から東アジアに向かおうとすると、ヒマラヤ山脈という巨大な障壁があり、可能性としては、ヒマラヤ山脈の南側を通過するか(東南アジア経由)、ヒマラヤ山脈の北側を通過するか(中央アジア経由)しなければなりません。Su 1999、Shi 2008、Zhong 2010では南側ルートの話ばかりでしたが、Zhong 2011では北側ルートにも目が向けられるようになります。Zhong 2011が特徴的なのは、古代中国と西方の間でシルクロードが栄えた時代や農耕・牧畜が始まった時代ではなく、もっと前のLast Glacial Maximum(最終氷期最盛期)の直後(15000~18000年前頃)から、人々が北側ルートを通って東アジアに入ってきていると考えている点です。Su氏、Shi氏、Zhong氏らの考えの変化は、東アジアの特に北部の人々にごく低率ながら認められるY染色体DNAのQ系統とR系統を本格的に分析し始めたことによります(Short tandem repeatに関する知識が必要なので、ここでは深入りしません)。東アジアの人々は古い時代に南側ルートを通ってやって来た多数の人々とそれより後の時代に北側ルートを通ってやって来た少数の人々によって形成されたのではないかという考えが生まれてきました。Su氏、Shi氏、Zhong氏らのグループの研究はこのように変遷してきました。

しかし、実は全然違うところでもっと大胆な説を提唱している人たちがいました。

 

参考文献

Haber M. et al. 2019. A rare deep-rooting D0 African Y-chromosomal haplogroup and its implications for the expansion of modern humans out of Africa. Genetics 212(4): 1421-1428.

Maca-Meyer N. et al. 2001. Major genomic mitochondrial lineages delineate early human expansions. BMC Genetics 2: 13.

Macaulay V. et al. 2005. Single, rapid coastal settlement of Asia revealed by analysis of complete mitochondrial genomes. Science 308(5724): 1034-1036.

Mellars P. 2006. Why did modern human populations disperse from Africa ca. 60,000 years ago? A new model. Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America 103(25): 9381-9386.

O’Connell J. F. et al. 2015. The process, biotic impact, and global implications of the human colonization of Sahul about 47,000 years ago. Journal of Archaeological Science 56: 73-84.

O’Connell J. F. et al. 2018. When did Homo sapiens first reach Southeast Asia and Sahul? Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America 115(34): 8482-8490.

Poznik G. D. et al. 2016. Punctuated bursts in human male demography inferred from 1,244 worldwide Y-chromosome sequences. Nature Genetics 48(6): 593-599.

Rito T. et al. 2019. A dispersal of Homo sapiens from southern to eastern Africa immediately preceded the out-of-Africa migration. Scientific Reports 9(1): 4728.

Shea J. J. 2008. Transitions or turnovers? Climatically-forced extinctions of Homo sapiens and Neanderthals in the East Mediterranean Levant. Quaternary Science Reviews 27(23-24): 2253-2270.

Shi H. et al. 2008. Y chromosome evidence of earliest modern human settlement in East Asia and multiple origins of Tibetan and Japanese populations. BMC Biology 6: 45.

Soares P. et al. 2012. The expansion of mtDNA haplogroup L3 within and out of Africa. Molecular Biology and Evolution 29(3): 915-927.

Su B. et al. 1999. Y-Chromosome evidence for a northward migration of modern humans into Eastern Asia during the last Ice Age. American Journal of Human Genetics 65(6): 1718-1724.

Y Chromosome Consortium. 2002. A nomenclature system for the tree of human Y chromosomal binary haplogroups. Genome Research 12: 339-348.

Zhong H. et al. 2010. Global distribution of Y-chromosome haplogroup C reveals the prehistoric migration routes of African exodus and early settlement in East Asia. Journal of Human Genetics 55(7): 428-435.

Zhong H. et al. 2011. Extended Y chromosome investigation suggests postglacial migrations of modern humans into East Asia via the northern route. Molecular Biology and Evolution 28(1): 717-727.

黄河文明と長江文明を開始した人々

日本語の複雑な歴史、インド・ヨーロッパ語族はこんなに近くまで来ていたの記事で示した図は、遼河流域で話されていた言語(正確には「日本語の前身言語」と言うべきですが、簡便のために単に「日本語」と言います)が山東省のあたりに南下してきて、インド・ヨーロッパ語族の言語、テュルク系の言語、モンゴル系の言語、シナ・チベット語族の言語、ベトナム系の言語、タイ系の言語に接しているところです。この図は、春秋戦国時代(BC770年~)より若干前の時代を念頭に置いています。

日本語には、山東省のあたりにいた時代の前に、遼河流域にいた時代があります。この遼河流域にいた時代に、日本語は周囲にいた様々な言語(アメリカ大陸のインディアンの言語に比較的近い言語やアイヌ語・朝鮮語・ツングース系言語に比較的近い言語もありました)から大量の語彙を取り入れていたのです。日本語が山東省のあたりで過ごした時代も複雑ですが、日本語が遼河流域で過ごした時代も複雑だったのです。遼河文明の開始がBC6200年頃、遼河流域で気候変動による砂漠化が始まったのがBC2200年頃(Yang 2015)、春秋戦国時代の開始がBC770年であることを考えれば、山東省のあたりで過ごした時間より、遼河流域で過ごした時間のほうが明らかに長かったでしょう。

本ブログでは、ウラル語族の言語、インド・ヨーロッパ語族の言語、テュルク系の言語、モンゴル系の言語、ツングース系の言語、シナ・チベット語族の言語、ベトナム系の言語、タイ系の言語がまず登場し、後から古代北ユーラシアの言語群が登場してきますが、これは筆者の研究がそのような順序で進んできたからです。

多くの言語学者と同じように、筆者も日本語の起源・歴史を考えるにあたって「現在残っている言語」を見ているだけでした。これは致し方ありません。過去に消えた言語がたくさんあって、日本語がそれらの言語と深く付き合っていたというのは、いきなり考えつくことではないからです。現在残っている言語の語彙を丁寧に根気強く調べていくうちに、かつて北ユーラシア(インド・ヨーロッパ語族やウラル語族が広がる前の北ユーラシア)に未知の巨大な言語群があったようだという感触を得たのです。

古代北ユーラシアに存在した言語群は謎に満ちています。本ブログで盛んに取り上げている水のことをjak-、jik-、juk-、jek、jok-(jは日本語のヤ行の子音)のように言っていた言語群はその一つです。この言語群は、ケチュア語yaku(水)やグアラニー語i(水)(グアラニー語と同系の言語でトゥパリ語yika(水)イカ、メケンス語ɨkɨ(水)イキ、マクラップ語ɨ(水))などの語彙を見せる南米のインディアンの言語と関係が深そうです。

日本語にyuki(雪)、ツングース諸語にエヴェンキ語djuke(氷)デュク、ナナイ語dӡuke(氷)ヂュク、満州語tʃuxe(氷)チュフなどの語があることから、遼河・アムール川周辺に水のことをjuk-のように言う言語が存在したことが窺えます。ラテン語のjus(汁)ユースが英語のjuice(ジュース)になったように、子音[j](日本語のヤ行の子音)が[dʒ、ʒ、tʃ、ʃ]になることは多く、そこからさらに[d、z、t、s]になることもよくあります。jak-という形から、dʒak-、ʒak-、tʃak-、ʃak-という形が生まれたり、dak-、zak-、tak-、sak-という形が生まれたりするわけです。

ここで興味深いのが、シナ・チベット語族の古代中国語sywij(水)シウイ、ペー語ɕui(水)シュイ、チベット語chu(水)チュ、ガロ語chi(水)、ミゾ語tui(水)などです。上に述べたように、日本語とツングース諸語の語彙から、遼河・アムール川周辺(今の中国東北部のあたり)に水のことをjuk-のように言う言語があったことがわかります。juk-はdʒuk-、ʒuk-、tʃuk-、ʃuk-に変化しやすく、ツングース諸語はその一例を示しています。

前に英語day(日)、ドイツ語Tag(日)、オランダ語dag(日)、スウェーデン語dag(日)、アイスランド語dagur(日)などの例を挙げましたが、末子音k/gはi/j(日本語のヤ行の子音)によく変化します。日本語は子音k/gで終わることができませんが、世界の言語を見渡すとそのような傾向があります(特に中国語は歴史を通じてこの傾向があります。例えば、現代の中国語のbai(白)のiの部分は、隋・唐の時代にはkでした。現代の中国語のtai(台)のiの部分は、隋・唐の時代にもiでしたが、さらにその前はkであったと見られます。tai(台)は、周囲を見渡すための高い建物や高くなった土地・場所を意味していた語で、日本語のtaka(高)やテュルク諸語のトルコ語dağ(山)ダー、カザフ語taw(山)、ウイグル語taʁ(山)タグなどと同源と考えられるからです)。水を意味するtʃukのような語があれば、それはtʃui/tʃujになりやすいということです。シナ・チベット語族の「水」が怪しいです。

同じく興味深いのが、オーストロアジア語族のベトナム語nước(水)ヌウク、バナール語dak(水)、クメール語tɨk(水)トゥク、モン語daik(水)、サンタル語dak’(水)ダークなどです。オーストロアジア語族は、本ブログではだれにでもわかりやすいようにベトナム系言語と呼んでいますが、長江文明の担い手たちの言語です。オーストロアジア語族の言語は、今ではベトナムのあたりからインドの内部へ点々と分布していますが、かつては長江下流域からインドまで広がっていたと考えられます。オーストロアジア語族の「水」も怪しいです。

要点を整理しましょう。

・古代北ユーラシアに水のことをjak-、jik-、juk-、jek-、jok-のように言う巨大な言語群が存在した。
・この巨大な言語群の一部はアメリカ大陸に入っていった。
・jak-、jik-、juk-、jek-、jok-の先頭の子音[j]は[dʒ、ʒ、tʃ、ʃ]に変化すること、さらに[d、z、t、s]に変化することがよくあった。

この話はまずニヴフ語のtʃaχ(水)チャフなどに関係がありそうですが、シナ・チベット語族の「水」とオーストロアジア語族の「水」も無関係とは思えません。tʃuk-という形はシナ・チベット語族の「水」に通じるし、dʒak-あるいはdak-という形はオーストロアジア語族の「水」に通じます。

周辺に存在する日本語mizu(水)、朝鮮語mul(水)、エヴェンキ語mū(水)ムー、ナナイ語mue(水)ムウ、満州語muke(水)ムク、モンゴル語us(水)、アイヌ語wakka(水)などが全然違うだけに、上記の問題は際立ちます(前回の記事で、水を意味していた語が手、腕、肩、脇などを意味するようになるパターンを示しましたが、アイヌ語のtek(手、腕)の語源は、他言語で水を意味していた語でしょう)。

黄河文明の言語(シナ・チベット語族)はどこから来たのか、長江文明の言語(オーストロアジア語族)はどこから来たのか、黄河文明の言語と長江文明の言語の母体は水のことをjak-、jik-、juk-、jek-、jok-のように言っていた古代北ユーラシアの巨大な言語群なのかといった問題は、非常に興味深い問題です。しかし、このような問題は、1万年どころではなく、もっともっと時間を遡らなければならないスケールの大きい問題です。人類学、生物学、考古学の最新の知見を踏まえながら、アフリカからの人類の拡散の問題の一部として考えるのが賢明です。

この数十年くらいの人類学、生物学、考古学の進歩は目覚ましく、筆者も驚いています。しかし、アフリカからの人類の拡散は複雑で、人類学者・生物学者・考古学者が盛んに注目してきた部分と、あまり注目してこなかった部分があります。このあまり注目されてこなかった部分が原因で、東アジアの人々の解明が難航しているようです。特にこの部分に焦点を当てながら、アフリカからの人類の拡散を考察することにしましょう。

 

参考文献

Yang X. et al. 2015. Groundwater sapping as the cause of irreversible desertification of Hunshandake Sandy Lands, Inner Mongolia, northern China. Proceedings of the National Academy of Sciences 112(3): 702-706.