大(おほ)と多(おほ)、もともと一語だったのはなぜか

奈良時代の日本語には、oɸosi(大し)とoɸosi(多し)という語がありました。同じ語が大きいことと多いことを意味するのは少し変な感じがしますが、奈良時代の時点ではそうでした。

その後、oɸosiとその連体形であるoɸokiから作られたoɸokinariという語が存在するようになり、oɸosiが多いことを、oɸokinariが大きいことを意味するようになりました。現代の日本語では、oɸosiの役割をooi(多い)が受け継ぎ、oɸokinariの役割をookii(大きい)とookina(大きな)が受け継いでいます。

実は、上のoɸosi(大し)とoɸosi(多し)のケースは珍しくなく、例えば、英語のmuchも昔は大きいことと多いことを意味していました(今ではbigやlargeが大きいことを意味しています)。なぜ同一の語が大きいことと多いことを意味していたのでしょうか。

まず、水・水域を意味していた語がその隣接部分、特に盛り上がり、坂、丘、山などを意味するようになるパターンを思い出してください。超頻出パターンです。水・水域を意味していた語が山を意味するようになることがよくあるわけです。ここに答えが隠されています。竪穴式住居を抜きにして人類の歴史は語れないの記事で使った図を、もう一度使います。

山は山でも、なにかがどんどん積み重なってできる山を思い浮かべてください。この山を意味していた語が、大きいことを意味するようになったり、多いことを意味するようになったりするのです。日本語の場合は、山を意味する*opoという語があって、これがoɸo(大)とoɸo(多)になったようです。

奈良時代の日本語には、oɸo(大)とoɸo(多)のほかに、生育・成長を意味するoɸu(生ふ)という語がありましたが、この語ももともとは大きくなることを意味していたと考えられます。現代の日本語でも「大きくなったらなにになりたいか」と言ったりするので容易に理解できるでしょう。奈良時代の日本語のoɸu(生ふ)は現代の日本語でou(生う)になっていますが、単独で使われることは普通なく、oisigeru(生い茂る)やoitati(生い立ち)のような形で使われるくらいです。

奈良時代の日本語には、oɸu(覆ふ)とoɸoɸu(覆ふ)という語もありました。フィンランド語にkattaa(覆う)とkatto(屋根)があったり、ロシア語にkrytj(覆う)クリーチとkrysha(屋根)クリーシャがあったりするように、「覆う」と「屋根」には密接な関係があります。おそらく、山を意味していた*opoが屋根を意味することもあり(昔の人々が住んでいた竪穴式住居の屋根はまさに山です)、そこからoɸu(覆ふ)とoɸoɸu(覆ふ)が生まれたと見られます。

やはり、山を意味する*opoという語があったようです。ここで気になるのが、古代北ユーラシアで水のことをam-、um-、om-のように言っていた巨大な言語群です。ここから日本語のama(雨)、abu(浴ぶ)、aburu(溢る)、appuappu(あっぷあっぷ)などが来たと考えられることはお話ししました。mとbとpの間は非常に変化しやすいので、am-、um-、om-のような形、ab-、ub-、ob-のような形、ap-、up-、op-のような形を考えなければなりません。

現代の日本語のoboreru(溺れる)に注目しましょう。oboreru(溺れる)の前はoboru(溺る)でした。oboru(溺る)はどこから来たのかというと、奈良時代の日本語にoboɸoru(溺ほる)という語があり、これがoboru(溺る)になったという説明が一般的です(大野1990)。しかし、奈良時代の日本語を詳しく調べると、以下の四つの語があったようです(上代語辞典編修委員会1967)。

oboɸoru(溺ほる)
oboɸosu(溺ほす)
oboru(溺る)
obosu(溺す)

oboɸoru(溺ほる)とoboru(溺る)は「溺れる」という意味、oboɸosu(溺ほす)とobosu(溺す)は「溺れさせる」という意味です。ruとsuをくっつけて自動詞と他動詞を作るのは日本語の頻出パターンであり、その前のoboɸoとoboが本体であると考えられます。

水を意味するopoまたはoboという語があって、これがappuappu(あっぶあっぷ)のように重ねられて、opo opoまたはobo oboと言っていた可能性があります。母音が連続するのを好まない昔の日本語であれば、すぐにopopoかoboboになるでしょう。

奈良時代の日本語には、ぼんやりしていることを意味するoɸoɸosi(おほほし)という語もありました。霧や霞とともに用いられている例が多く、oɸoɸoの根底にも水があると見られます。水を意味していた語が水蒸気、湯気、霧、雲などを意味するようになるパターンです。

水を意味するopoとその重ね型であるopopo(母音が連続するopo opoが好まれないため)から、上記のoboɸoru(溺ほる)/oboɸosu(溺ほす)/oboru(溺る)/obosu(溺す)とoɸoɸosi(おほほし)が生まれた可能性が高そうです。oɸoɸosi(おほほし)と同じくぼんやりしていることを意味するoboro(おぼろ)の語源もここと見られます。opoが水・水域を意味することができず、その隣接部分の盛り上がり、坂、丘、山などを意味するようになれば、冒頭のoɸo(大)とoɸo(多)の話につながっていきます。

koɸoru(凍る)、koɸori(氷)、koboru(こぼる)、kobosu(こぼす)の背後にも水が隠れていそうですが、このように発音が清音と濁音の間で揺れることは多かったのでしょう。

前回の記事の最後に、bukabuka(ぶかぶか)という語が出てきました。水を意味するpurk-(pur-、puk-)のような語がpukapuka(ぷかぷか)になるのはわかりやすいですが、bukabuka(ぶかぶか)になるのはわかりにくいです。しかし、今回の記事を読んだ後であれば、理解のための準備はできています。bukabuka(ぶかぶか)は水・水域から直接生まれたのではなく、意味が水・水域から盛り上がりや山に移って、その盛り上がりや山から生まれた語なのです。つまり、ɸukaɸuka(ふかふか)、ɸukura(ふくら)、ɸukuru(膨る)などと同類です。bukabuka(ぶかぶか)は大きいことを意味しています。

水・水域を意味していた語が盛り上がりや山を意味するようになり、盛り上がりや山を意味していた語が大きいことや多いことを意味するようになる話をしました。今回の話を補強するために、英語のmuchの語源も補説で明らかにしておきます。すでに述べたように、英語のmuchも大きいことと多いことを意味していました。

 

補説

ラテン語のmagnus(大きい)と古代ギリシャ語のmegas(大きい)

古代北ユーラシアに水のことをmark-、mirk-、murk-、merk-、mork-(mar-、mir-、mur-、mer-、mor-、mak-、mik-、muk-、mek-、mok-)のように言う巨大な言語群が存在し、フィンランド語にmärkä(濡れている)マルカ、meri(海)、mäki(丘)マキのような語が入ったことはお話ししました。フィンランド語のmäki(丘)やハンガリー語のmagas(高い)を見ると、盛り上がりや山を意味するmak-、mek-あるいはmag-、meg-のような語があったことが窺えます。

ここでインド・ヨーロッパ語族に目を向けると、ラテン語magnus(大きい)や古代ギリシャ語megas(大きい)のような語があります。-nusと-sは形容詞を作る時に付けられるもので、その前のmag-とmega-が大きいことを意味しています。その一方で、ヒッタイト語mekkiš(多い)やトカラ語maka(多い)のような語もあります。

ウラル語族とインド・ヨーロッパ語族の語彙を見ると、古代北ユーラシアの巨大な言語群で水を意味したmark-、mirk-、murk-、merk-、mork-(mar-、mir-、mur-、mer-、mor-、mak-、mik-、muk-、mek-、mok-)のような語が、盛り上がりや山を意味するようになり、さらに大きいことや多いことを意味するようになったのがわかります。

上に挙げたラテン語、古代ギリシャ語、ヒッタイト語、トカラ語と同源の語として、古英語にmicel(大きい、多い)ミチェルという語がありました([ki]が[tʃi]になり、[ke]が[tʃe]になるキチ変化を起こしています)。この語が、muchelを経て、muchになり、多いことのみを意味するようになりました。

 

参考文献

大野晋ほか、「岩波 古語辞典 補訂版」、岩波書店、1990年。

上代語辞典編修委員会、「時代別国語大辞典 上代編」、三省堂、1967年。

「墓(はか)」の語源

「腹(はら)」の語源の記事にアクセスしてくださる方が増えているので、ここに追加記事を書いておきます。hara(腹)の語源は棚上げにしていました。ここで明らかにします。hara(腹)の古形はɸara(腹)で、さらにその前の推定古形は*para(腹)です。

前にインド・ヨーロッパ語族の英語water(水)、ヒッタイト語watar(水)のような語が日本語のwata(海)になったようだと述べました。p、b、w、vの間は密接です。朝鮮語pada(海)、アイヌ語pet(川)も関係がありそうです。水・水域を意味していた語が端の部分や境界の部分を意味するようになるパターンも思い出してください。日本語のɸata(端)、ɸate(果て)、ɸatu(果つ)(推定古形は*pata、*pate、*patu)も関係がありそうです。東アジアではこのようなことが起きていたわけです(世界的に見れば、wがpになることより、wがbになることのほうがずっと多いですが、昔の日本語、朝鮮語、アイヌ語では語頭に濁音を使うことがありませんでした)。

古代北ユーラシアに水のことをmark-、mirk-、murk-、merk-、mork-(mar-、mir-、mur-、mer-、mor-、mak-、mik-、muk-、mek-、mok-)のように言う巨大な言語群が存在し、先頭の子音がmになっていたり、bになっていたり、pになっていたり、wになっていたり、vになっていたりしました(この巨大な言語群については、かすかに浮かび上がる朝鮮語とアイヌ語の起源の記事以降でたびたび取り上げているので、そちらを参照してください)。朝鮮語のmul(水)では先頭の子音はm、ツングース諸語のエヴェンキ語mū(水)ムー、ナナイ語mue(水)ムウ、満州語muke(水)ムクでは先頭の子音はm、アイヌ語wakka(水)(推定古形は*warkaまたは*walka)では先頭の子音はwになっていますが、先頭の子音がpの場合、つまりpark-、pirk-、purk-、perk-、pork-(par-、pir-、pur-、per-、por-、pak-、pik-、puk-、pek-、pok-)のような形も考えなければなりません。実際に水のことをpark-、pirk-、purk-、perk-、pork-(par-、pir-、pur-、per-、por-、pak-、pik-、puk-、pek-、pok-)のように言う言語が存在したことは、日本語の語彙を見ればわかります。

日本語では、parkaという形は許されないので、kを落としてparaにするか、rを落としてpakaにしなければなりません。ここで、水・水域を意味していた語がその隣接部分、特に盛り上がり、坂、丘、山などを意味するようになるパターンの出番です。日本語の*paraも*pakaも盛り上がりを意味していたようです。*paraのほうはɸara(腹)、ɸaru(張る)、ɸaru(腫る)などになりました。*pakaのほうはどうでしょうか。奈良時代の日本語を見ると、ɸaka(墓)とtuka(塚)の使い方が一部重なっています。おそらく、死者が埋まっているところが盛り上がっていて、そこをɸakaと呼んだり、tukaと呼んだりしていたと思われます。その後、tukaは形の意味を保ち、ɸakaは形に関係なく死者を納める場所を意味するようになっていったのでしょう。

水・水域を意味していた語がその横の部分を意味するようになるのは、超頻出パターンです。しかし、横の部分がどうなっているかによって、意味が変わってきます。横の部分が盛り上がっていれば、盛り上がった土地を意味するようになるし、横の部分が平らなら、平らな土地を意味するようになるということです。*paraが盛り上がった土地を意味したり、平らな土地を意味したりし、最終的にɸara(腹)/ɸaru(張る)/ɸaru(腫る)とɸara(原)に落ち着いたと見られます。ɸara(原)は広い平らな場所を意味していた語で、三省堂時代別国語大辞典上代編(上代語辞典編修委員会1967)などが推測しているように、ɸira(平)とɸiro(広)も同類でしょう。

上に挙げたɸara(腹)、ɸaru(張る)、ɸaru(腫る)、ɸaka(墓)、ɸara(原)はpark-(par-、pak-)という形から来ていますが、purk-(pur-、puk-)という形から来ている語も多そうです。

例えば、ɸuru(降る)です。水を意味していた語が雨または雪を意味するようになるのも頻出パターンです。ただ、ɸuru(降る)の場合は、雨または雪を意味しようとしたが、最終的に叶わず、現在の役目に落ち着いたと見られます。

pukapuka(ぷかぷか)も明らかに水関連です。*pukaは水を意味しようとしたが、それができなかったのでしょう。ɸuka(深)もここから来ているのかもしれません。深まることを意味するɸuku(更く)、深く沈むことを意味するɸukeru(耽る)を伴います。水・水域を意味することができなかった語が、水域に生息する生き物を意味するようになるケースを示したことがありましたが、ɸuka(フカ)(サメの別名)もそうかもしれません。

水を意味していた語が水蒸気・湯気を意味するようになるのも頻出パターンです。ɸukasu(蒸かす)はこのパターンによって生まれた語でしょう。

※同じような意味のmusu(蒸す)、muru(蒸る)、murasu(蒸らす)も、究極的には水を意味するmark-、mirk-、murk-、merk-、mork-(mar-、mir-、mur-、mer-、mor-、mak-、mik-、muk-、mek-、mok-)のような語から来たものでしょう。

ɸukaɸuka(ふかふか)、ɸukura(ふくら)、ɸukuru(膨る)、ɸukuro(袋)、ɸukuyoka(ふくよか)(ɸukuyaka(ふくやか)という語もありました)などは、先に挙げたɸara(腹)やɸaka(墓)と同様で、水・水域を意味していた語がその隣接部分、特に盛り上がり、坂、丘、山などを意味するようになったパターンであると考えられます。

水のことをpark-(par-、pak-)のように言ったり、purk-(pur-、puk-)のように言ったりする言語があったことが窺えます。日本語は、アイヌ語、朝鮮語、ツングース系言語から受けた影響は小さくても、これらに近い言語から受けた影響はとても大きいようです。これは、地理的関係からして納得でしょう。

ɸara(原)が出てきたので、no(野)にも言及しておきます。奈良時代のɸara(原)とno(野)は少し意味が違っていて、ɸara(原)は平らな場所を意味し、no(野)はゆるやかに傾斜した場所を意味していました。noのほかにnuという形もあったようです(上代語辞典編修委員会1967)。ɸara(原)の場合と同じように、水・水域を意味していた語がその横の部分を意味するようになった可能性が高いです。タイ系言語のタイ語naam(水)のような語が日本語のnama(生)(焼いたり干したりしておらず水っぽいという意味)、nami(波)、numa/nu(沼)、nomu(飲む)などになりましたが、no/nu(野)も同じところから来ていると見られます。

日本語とタイ系言語がどこで接していたのかというのは、なかなか難しい問題であり、東アジア全体にも関わる問題です。

今回の記事では、pukapuka(ぷかぷか)という語が出てきました。日本語には、bukabuka(ぶかぶか)という語もあります。pukapuka(ぷかぷか)と違って、bukabuka(ぶかぶか)は水に結びつきそうにありませんが、意外なことに、bukabuka(ぶかぶか)も水から来ているようです。水を意味していた語がどうしてbukabuka(ぶかぶか)になるかわかるでしょうか。

 

参考文献

上代語辞典編修委員会、「時代別国語大辞典 上代編」、三省堂、1967年。

異色のカップルの誕生

ミトコンドリアDNAのB系統

ミトコンドリアDNAのB系統の研究は、異なる表記と意見が飛び交って、大変わかりづらくなっています。現在では、ミトコンドリアDNAのB系統をB4系統、B5系統、B6系統の三つに分けて記述するのが標準的です。以下のピンク色の部分は内容が非常に専門的なので、最近の研究事情を詳しく知りたい方以外は読み飛ばして次に進んでください。

B1~B3という表記はもう基本的に使われず、アメリカ大陸のインディアンのミトコンドリアDNAを記述する時に昔のB2という表記を用いることがあるくらいです。昔のB2は今ではB4系統の下位系統として分類されています。B6系統(150、8281-8289d、9452、12950、13928Cという変異によって定義される)は、研究者によってB6と表記したり、B7と表記したりしています。

表記だけでなく、意見もばらついています。以前にお話ししたようにミトコンドリアDNAのN系統の一下位系統としてR系統があり、R系統の一下位系統としてB系統があります。現在特に問題なのは、(1)のような見方をする研究者(Kong 2003など)と、(2)のような見方をする研究者(Soares 2009など)がいることです。

(1)はB4とB5とB6が近い系統関係にあり、この三者とR11が遠い系統関係にあるという見方です。(2)はB4とB5が近い系統関係にあり、B6とR11が近い系統関係にあり、前の二者と後の二者が遠い系統関係にあるという見方です。(1)が従来の見方で、(2)はそれを変形する見方です。B4とB5とB6に8281-8289dという変異が共通し、B6とR11に12950という変異が共通しているために、このようなことになっています。大きく見れば、B4、B5、B6、R11はどれもR系統の下位系統であり、B4、B5、B6、R11に系統関係があることは間違いありません。近い系統関係がどこにあるかという点で、見方が分かれています。以下では、基本的に(1)にしたがって話を進めます。ただし、(1)であっても(2)であっても、ここでの話の大筋にはさほど影響ありません。

B系統のミトコンドリアDNAは東アジア・東南アジアを中心に非常に多く見られますが、そのほとんどはB4系統かB5系統です。ちなみに、B4系統の一下位系統がアメリカ大陸に入っていきました。そのB4系統とB5系統の陰に隠れて、B6系統は全くと言ってよいほど注目されてきませんでした。B6系統は、日本列島と朝鮮半島はもちろんのこと、中国でもなかなか見られませんが、東南アジア、特に南アジアから東南アジアへの入口の近く(つまりミャンマーのあたり)に向かっていくとだんだんと見られるようになります(Summerer 2014)。Summerer氏らの調査では、327名のミャンマー人のミトコンドリアDNAを調べて、21名(6.4%)がB6系統のミトコンドリアDNAを持っていました。これは、まずまず見られると言ってよいレベルでしょう。B系統の中で、B6系統は超少数派ですが、独自の変異をたくさん積み重ねており、とても古い時代(B系統の発生から長くは経っていない頃)にB4系統とB5系統と分かれていることは確実です(Kong 2003、Summerer 2014)。B4系統とB5系統の広大な分布とは違うB6系統の独特な分布は、大変示唆的です。

ミトコンドリアDNAのB系統が北側ルート(中央アジア経由)で東アジアに入ってきたと仮定すると、かなり不自然なことになります。B6系統は北方には見られず、南下してもなかなか見られず、南アジアから東南アジアへの入口の近くに向かっていくとだんだんと見られるようになります。しかも、そのB6系統の歴史はとても古いのです。ミトコンドリアDNAのB系統はとても古い時代に南方で生じ、B系統の一部は北上し、一部は北上しなかったと考えるほうがよく合います。

今のところ、ミトコンドリアDNAのB系統は南側ルート(東南アジア経由)の流れに属する可能性が高そうです。B系統はR系統の一下位系統なので、R系統の他の下位系統、特にB系統に近そうな下位系統と照らし合わせながら根拠を固める必要があるでしょう。

ミトコンドリアDNAのA系統

B系統以上に謎めいているのがA系統です。ミトコンドリアDNAのN系統にある変異が起きてR系統が生まれ、N系統にそれとは違う変異が起きてA系統が生まれました。下の図のように、B系統はR系統に属しますが、A系統はR系統に属しません。

謎めいているのは、N系統からA系統が生まれる過程です。N系統と比べると、A系統は152、235、523-524d、663、1736、4248、4824、8794、16290、16319のようにとても多くの変異を起こしており、N系統からA系統に至るまでの道が非常に長いことがわかります(Kong 2003)。上に並べた一連の変異は、なんらかの順序で起きていったものです。上に並べた変異のうちの一つだけが起きたタイプ、上に並べた変異のうちの二つだけが起きたタイプ、上に並べた変異のうちの三つだけが起きたタイプ、・・・・・、上に並べた変異のうちの九つだけが起きたタイプのミトコンドリアDNAだってあったはずです。しかし、そのようなミトコンドリアDNAは見当たりません。つまり、A系統に近い系統はことごとく消滅し、かろうじてA系統だけが残ったのです。

N系統からA系統に至るまでの過程で順々に生まれたはずの系統がことごとく消滅したことは疑いなく、問題はそのような消滅を引き起こす(厳しい)状況が北のほうにあったのか、南のほうにあったのかということです。シベリアとシベリアを襲ったLast Glacial Maximum(最終氷期最盛期)が系統の大減少を引き起こした可能性は十分にあります。上に並べた10個の変異を持つA系統自体も、分布の中心が東ユーラシアの南のほうにはなく、東南アジアの一部にかすかに届いているだけなので、南のほうで生じたものではないと見られます(Stoneking 2010)。

今のところ、断定はできませんが、A系統は北側ルート(中央アジア経由)の流れに属する可能性が十分にあります。ことごとく消滅してしまった「ゴースト系統」(N系統からA系統に至るまでの過程で生じた系統)のミトコンドリアDNAを持つ古代人が北ユーラシアで発見されれば、その可能性が強まります。

前回の記事と今回の記事を整理すると、以下のようになります。

インディアンのミトコンドリアDNA

A系統 — 北側ルートの流れに属する可能性が十分にある
B系統 — 南側ルートの流れに属する可能性が高い
C系統 — 南側ルートの流れに属する
D系統 — 南側ルートの流れに属する

インディアンのY染色体DNA

Q系統 — 北側ルートの流れに属する

インディアンのミトコンドリアDNAを見ると、東南アジア方面からの流れが強そうなのに、インディアンのY染色体DNAを見ると、中央アジア方面からの流れが圧倒的なのです。

アフリカ・中東からインディアンの先祖がいたと考えられるユーラシア大陸北東部に辿り着くためには、東南アジアを経由するか、中央アジアを経由するかしなければなりません。インディアンの先祖は、東南アジア方面から来たのか、中央アジア方面から来たのか、あるいは両方面から来たのか、もしそうなら東南アジア方面から来た人が多かったのか、中央アジア方面から来た人が多かったのかと議論されてきたのは当然です。しかし、上のようなインディアンのミトコンドリアDNAとY染色体DNAの対照的な傾向を見ると、男女関係も考えないわけにはいきません。

ここで二つの問題が持ち上がります。一つ目の問題は、インディアンのミトコンドリアDNAとY染色体DNAはなぜ対照的な傾向を示しているのかという問題です。二つ目の問題は、インディアンのミトコンドリアDNAとY染色体DNAが示している対照的な傾向はインディアンに特有なものなのか、つまりインディアンに限定されたものなのかという問題です。

 

参考文献

Kong Q.-P. et al. 2003. Phylogeny of east Asian mitochondrial DNA lineages inferred from complete sequences. American Journal of Human Genetics 73(3): 671-676.

Soares P. et al. 2009. Correcting for purifying selection: An improved human mitochondrial molecular clock. American Journal of Human Genetics 84(6): 740-759.

Stoneking M. et al. 2010. The human genetic history of East Asia: Weaving a complex tapestry. Current Biology 20(4): R188-R193.

Summerer M. et al. 2014. Large-scale mitochondrial DNA analysis in Southeast Asia reveals evolutionary effects of cultural isolation in the multi-ethnic population of Myanmar. BMC Evolutionary Biology 14: 17.