日没の時間、明るさと暗さについての再考

「日が暮れる」とはどういう意味か?

光の届く空間と届かない空間の記事およびその後のいくつかの記事で、明るさと暗さについて論じました。水・水域を意味することができなかった語が、水域の浅い部分(つまり明るい部分)または水域の深い部分(つまり暗い部分)を表す語になるのだろうというのが、筆者の考えでした。この考えは一理あるものの、まだ考えなければならないことが残っているようです。特に、暗さのほうに考えるべきことが残っているようです。日没の時間を思い浮かべてください(画像は中日新聞様のウェブサイトより引用)。

筆者が気にしていた表現があります。「日が暮れる」という表現です。「暮れる」の部分がなにを意味しているのか考えたいのですが、そのためには「日」の部分がなにを意味しているのか考えなければなりません。

日本語に「日が落ちる」という言い方と「日が短くなる」という言い方があります。「日が落ちる」と言う時の「日」は太陽を意味しており、「日が短くなる」と言う時の「日」は太陽が出ている時間を意味しています。

日本語に「日が暮れる」という表現のほかに「年が暮れる」という表現があるので、筆者は、「日が暮れる」の「日」も、「年が暮れる」の「年」も、ある時間幅を意味していると考えていました。

日本語の語彙を見れば、kureru(暮れる)の古形であるkuru(暮る)をkura(暗)/kuro(黒)に結びつけたくなります。筆者は、暗さ・黒さを意味する語が動詞化したのがkuru(暮る)であると考えていました。「日が暮れる」の「暮れる」の部分は、もともと暗くなることを意味していたが、やがて終わることを意味するようになり、「年が暮れる」とも言うようになったと考えていたのです。

本当にその考えでよいのか?

上の考えはもっともらしいです。筆者がこのもっともらしい考えに初めて疑問を抱いたのは、yami(闇)の語源について考え始めた時でした。

「山(やま)」の語源、死者が行くという黄泉の国はどこにあったのか?の記事で、水を意味するjam-、jim-、jum-、jem-、jom-のような語(jは日本語のヤ行の子音です。mの部分は、mであったり、bであったり、pであったりします)があり、水→雨→下という意味変化を見せていたことをお話ししました。水を意味することができない、雨を意味することもできない、では下を意味しようという具合に、水から下に至るのはすぐです。

下を意味していた語が、落ちること、倒れること、転ぶこと、さらにもっと抽象的になって、疲れること、衰えること、病むこと、死ぬことを意味するようになるのはこれまでお話ししてきた通りで、yamu(病む)もその一例と考えられます。下を意味するyam-のような語があったということです。

下というのは、基本的な概念であり、抽象的な概念でもあります。そこから、実に様々な語が生まれます。下を意味するyam-のような語から生まれたのはyamu(病む)だけだろうかと考えた時に、まず気になったのがおさまること・静まることを意味していたであろうyamu(止む)で、次に気になったのがyami(闇)でした。奈良時代のyami(闇)のmiはmi乙類なので、*yamo(闇)という古形があったと思われます(yomi(黄泉)のmiがmi乙類で、yomo(黄泉)という古形があったのと同様です)。

筆者は、下を意味するyam-のような語が*yamo/yami(闇)になったのかもしれないと考えたのですが、そんなことをいきなり言われても、ピンとこないでしょう(下を意味するyom-のような語がyomo/yomi(黄泉)になったことはすでにお話ししました)。

先ほど挙げた「日が暮れる」という表現をもう一度よく見てください。「日」の部分は太陽が出ている時間を意味し、「暮れる」の部分は暗くなることを意味しているという解釈を示しました。実は、筆者はもう一つの解釈も考えていました。それは、「日」の部分は太陽を意味し、「暮れる」の部分は落ちることを意味しているという解釈です。二番目の解釈によれば、奈良時代のkuru(暮る)はもともと落ちることを意味していたことになります。

現代の日本語に、taberu(食べる)とkuu(食う)に押されて影が薄くなっていますが、kurau(食らう)という語があります。奈良時代には、kuraɸu(食らふ)です。口を意味する*kuraという語があったと見られます。その前には、穴を意味する*kuraという語、さらにその前には、下を意味する*kuraという語があった可能性が高いです(下→穴→口という意味変化については、「口(くち)」の語源を参照)。

こうなると、下を意味する*kuraという語があって、それが落ちること、特に日(太陽)が落ちることを意味するようになり、直結しますが、暗くなることを意味するようになった可能性も検討しなければなりません。

奈良時代には、yoɸi(宵)という語もありました。夜の比較的早い段階を指し、「宵」ではなく「夕」と書かれることもありました。そして、yuɸu(夕)という語もありました。yoɸi(宵)とyuɸu(夕)の語形の近さなおかつ意味の近さは、偶然とは思えません。yoɸi(宵)とyuɸu(夕)も、kuru(暮る)と同様、日没の時間に使われていたと考えられる語です。

水を意味するjam-、jim-、jum-、jem、jom-のような語(mの部分は、mであったり、bであったり、pであったりします)が水→雨→下という意味変化を見せていたことはお話ししましたが、そこからさらに、落ちること、特に日(太陽)が落ちること、ひいては、暗くなること、暗さを意味することもあったのではないかと思われます。*yamo/yami(闇)、yoɸi(宵)(推定古形*yopi)、yuɸu(夕)(推定古形*yupu)は、いずれも上述のjam-、jim-、jum-、jem、jom-のような語から来たのではないかと考えられる形をしています。

光の届く空間と届かない空間の記事でお話ししたように、水域の浅いところと深いところで明るさと暗さのコントラストができるのは確かですが、「(日が)落ちること」と「暗くなること」の関係も重要なようです。

下を意味する語は実に奇想天外な意味展開を見せてくれますが、もう一つ奇想天外な例を次回の記事でお見せしましょう。

※筆者は、英語のsleep(寝る)とロシア語のslabyj(弱い)スラーブイ/slabetj(弱る)スラビェーチが同源であることを知った時に、どういうことなのかいまひとつ事情が飲み込めなかったのを覚えています。本ブログの最近の記事を読んでいただいた後であれば、下を意味する語が、普通に横になること・寝ることを意味するようになったり、疲れること、衰えること、病むこと、死ぬことを意味するようになったりしているのだなとすぐに察しがつくでしょう。奈良時代の日本語のyawa(弱)とyowa(弱)も、下を意味する語から来たと見られます。jam-、jim-、jum-、jem-、jom-のような語のmの部分が、mであったり、bであったり、pであったりするだけでなく、wにもなっているのです。yoboyobo(よぼよぼ)も、yawa(弱)とyowa(弱)と同源でしょう。