「罷り通る(まかりとおる)」はとても難しい語だった!

現代の日本語に、makaritooru(罷り通る)という語があります。堂々と通用することを意味します。特に、通用してはならないはずのことが堂々と通用する時によく用いられます。このように理解しておけば、makaritooru(罷り通る)という言葉を一応無難に使うことはできます。しかしこの言葉には、実は大変複雑な歴史があります。その話をする前に、前回の記事のおさらいをしましょう。

前回の記事では、山を意味する*opoからoɸosi(大し)とoɸosi(多し)が生まれた話をしました。「山」を意味する語から「大きさ」を意味する語と「多さ」を意味する語が生まれたわけですが、「山」を意味する語から「高さ」を意味する語が生まれることももちろんあります。山を意味するtakaから生まれたのが、takasi(高し)、take(岳)、take(丈)です。

ここで大いに注意したいことがあります。「山」を意味する語が「高さ」を意味するようになることは多いですが、「高さ」を意味する語が「人間の体のうしろ側」を意味するようになることも多いのです。例えば、ウラル語族のフィンランド語にはtakana(うしろに、うしろで)という語があり、ハンガリー語にはdagad(高まる、盛り上がる、膨らむ、腫れる)という語があります。フィンランド語では、takaの意味が「高さ」から「うしろ」に変化しています。背中を合わせて背比べをしているうちに、このような変化が起きると考えられます。

日本語にはse(背)という語があるので、フィンランド語のような意味変化はよく理解できますが、筆者にとって意外だったのは、「人間の体のうしろ側」を意味していた語が「高さ」を意味するようになるケースより、「高さ」を意味していた語が「人間の体のうしろ側」を意味するようになるケースのほうが多いということでした。

前回の記事で取り上げた山を意味する*opoも、「高さ」を意味すること、そしてさらに、「人間の体のうしろ側」を意味することがあったようです。背を意味する*opoから生まれたのが、奈良時代の日本語のoɸu(負ふ)とoɸosu(負ほす)と見られます。oɸu(負ふ)は背負うこと、oɸosu(負ほす)は背負わせることを意味していました。

oɸu(負ふ)は、現代のou(負う)、obuu(おぶう)、onbu(おんぶ)につながります。

oɸosu(負ほす)は、最初は人や荷物を背負わせることを意味していましたが、そのうちに抽象的ななにか(役割、責任、義務など)を背負わせることを意味するようになっていきます。やがて、oɸosu(負ほす)はoɸosu(仰す)になり、命じることを意味するようになりました。その後、oɸosu(仰す)はoosu(仰す)になり、目上の者がなにか言うことも意味するようになりました。oosu(仰す)の名詞形がoose(仰せ)です。「仰せある通り(おおせあるとおり)」が短縮して「仰る通り(おっしゃるとおり)」という表現も生まれました。

目まぐるしい展開ですが、最も重要なポイントは、人や荷物を背負わせることを意味していた語が、抽象的ななにか(役割、責任、義務など)を背負わせることを意味するようになるという点です。

古代北ユーラシアで水のことをmark-、mirk-、murk-、merk-、mork-(mar-、mir-、mur-、mer-、mor-、mak-、mik-、muk-、mek-、mok-)のように言っていた巨大な言語群を思い出してください。水・水域を意味していた語が、その隣接部分の盛り上がり、坂、丘、山などを意味するようになり、フィンランド語のmäki(丘)マキやハンガリー語のmagas(高い)が生まれました。サモエード諸語を見ると、背・背中を意味するネネツ語maxaマハ、エネツ語maxaマハ、ガナサン語məkuムク、セリクプ語moqalモカル、カマス語bɛgəlベグル、マトル語bagaという語もあります。*makaまたは*magaという祖形が推定されます。やはり、「高さ」と「人間の体のうしろ側」には密接な関係があります。

ここで注目したいのが、奈良時代の日本語のmaku(任く)とmakasu(任す)という語です。奈良時代の時点で、maku(任く)とmakasu(任す)はすでに抽象的な語になっていました(奈良時代のmakasu(任す)の意味は現代のmakasu(任す)/makaseru(任せる)と大体同じです)。しかし、はじめから抽象的な語であったとは考えられません。古代中国語のnyim(任)ニイムも、もともと荷物を持つこと/運ぶことあるいは持たせること/運ばせることを意味していたのです。背を意味した*opoからoɸu(負ふ)とoɸosu(負ほす)が生まれたのと同様に、背を意味した*makaからmaku(任く)とmakasu(任す)が生まれた可能性があります。

奈良時代の日本語には、maku(任く)という動詞に加えて、maku(罷く)という動詞がありました。maku(任く)は、君主や朝廷が任命して派遣することを意味していました。maku(罷く)は、下がらせること/退かせることを意味していました。本来なら、以下のようになりそうです。

maku(任く)・・・任命して派遣すること

makaru(任る)・・・任命されて派遣されること

maku(罷く)・・・下がらせること、退かせること

makaru(罷る)・・・下がること、退くこと

※makaru(罷る)は、上記の意味から、いなくなることや死ぬことを意味することもありました。

しかし実際には、任命されて派遣されることを意味するmakaruにも、下がること/退くことを意味するmakaruにも、「罷」という漢字が使われていました。このようなややこしい事情があります。

しかしながら、上の四語を見れば、背・うしろを意味する*makaという語があって、この語から背負わせることを意味する動詞、背負うことを意味する動詞、うしろに移動させることを意味する動詞、うしろに移動することを意味する動詞が生まれたことがうっすら見てとれます。

maku(負く)という動詞の存在も、そのことを示唆しています。古代中国語のbjuw(負)ビウウは、もともと背負うことを意味していましたが、最終的に負けるという意味を獲得しました。人や荷物を身に受けることを意味していた語が、一般になにか負担になるものを身に受けることを意味するようになるのでしょう。なにか負担になるものというのが、責任・義務であったり、損傷・ダメージであったりするわけです。日本語のmaku(負く)も、古代中国語のbjuw(負)と似た運命を辿った可能性があります。

大変複雑な話になりましたが、君主や朝廷の命を受けてどこかに行くことをmakaru(「任る」と書くべきところですが実際には「罷る」)と言っていたのです。現代の日本語のmakaritooru(罷り通る)に堂々とした感じが漂うのはそのためです。

※現代の日本語には、makarimatigau(まかり間違う)という語もあります。makaritooru(罷り通る)は、通ってはいけないところで通ることを意味しますが、それと同じように、makarimatigau(まかり間違う)は、間違ってはいけないところで間違うことを意味するようになったと思われます。

大(おほ)と多(おほ)、もともと一語だったのはなぜか

奈良時代の日本語には、oɸosi(大し)とoɸosi(多し)という語がありました。同じ語が大きいことと多いことを意味するのは少し変な感じがしますが、奈良時代の時点ではそうでした。

その後、oɸosiとその連体形であるoɸokiから作られたoɸokinariという語が存在するようになり、oɸosiが多いことを、oɸokinariが大きいことを意味するようになりました。現代の日本語では、oɸosiの役割をooi(多い)が受け継ぎ、oɸokinariの役割をookii(大きい)とookina(大きな)が受け継いでいます。

実は、上のoɸosi(大し)とoɸosi(多し)のケースは珍しくなく、例えば、英語のmuchも昔は大きいことと多いことを意味していました(今ではbigやlargeが大きいことを意味しています)。なぜ同一の語が大きいことと多いことを意味していたのでしょうか。

まず、水・水域を意味していた語がその隣接部分、特に盛り上がり、坂、丘、山などを意味するようになるパターンを思い出してください。超頻出パターンです。水・水域を意味していた語が山を意味するようになることがよくあるわけです。ここに答えが隠されています。竪穴式住居を抜きにして人類の歴史は語れないの記事で使った図を、もう一度使います。

山は山でも、なにかがどんどん積み重なってできる山を思い浮かべてください。この山を意味していた語が、大きいことを意味するようになったり、多いことを意味するようになったりするのです。日本語の場合は、山を意味する*opoという語があって、これがoɸo(大)とoɸo(多)になったようです。

奈良時代の日本語には、oɸo(大)とoɸo(多)のほかに、生育・成長を意味するoɸu(生ふ)という語がありましたが、この語ももともとは大きくなることを意味していたと考えられます。現代の日本語でも「大きくなったらなにになりたいか」と言ったりするので容易に理解できるでしょう。奈良時代の日本語のoɸu(生ふ)は現代の日本語でou(生う)になっていますが、単独で使われることは普通なく、oisigeru(生い茂る)やoitati(生い立ち)のような形で使われるくらいです。

奈良時代の日本語には、oɸu(覆ふ)とoɸoɸu(覆ふ)という語もありました。フィンランド語にkattaa(覆う)とkatto(屋根)があったり、ロシア語にkrytj(覆う)クリーチとkrysha(屋根)クリーシャがあったりするように、「覆う」と「屋根」には密接な関係があります。おそらく、山を意味していた*opoが屋根を意味することもあり(昔の人々が住んでいた竪穴式住居の屋根はまさに山です)、そこからoɸu(覆ふ)とoɸoɸu(覆ふ)が生まれたと見られます。

やはり、山を意味する*opoという語があったようです。ここで気になるのが、古代北ユーラシアで水のことをam-、um-、om-のように言っていた巨大な言語群です。ここから日本語のama(雨)、abu(浴ぶ)、aburu(溢る)、appuappu(あっぷあっぷ)などが来たと考えられることはお話ししました。mとbとpの間は非常に変化しやすいので、am-、um-、om-のような形、ab-、ub-、ob-のような形、ap-、up-、op-のような形を考えなければなりません。

現代の日本語のoboreru(溺れる)に注目しましょう。oboreru(溺れる)の前はoboru(溺る)でした。oboru(溺る)はどこから来たのかというと、奈良時代の日本語にoboɸoru(溺ほる)という語があり、これがoboru(溺る)になったという説明が一般的です(大野1990)。しかし、奈良時代の日本語を詳しく調べると、以下の四つの語があったようです(上代語辞典編修委員会1967)。

oboɸoru(溺ほる)
oboɸosu(溺ほす)
oboru(溺る)
obosu(溺す)

oboɸoru(溺ほる)とoboru(溺る)は「溺れる」という意味、oboɸosu(溺ほす)とobosu(溺す)は「溺れさせる」という意味です。ruとsuをくっつけて自動詞と他動詞を作るのは日本語の頻出パターンであり、その前のoboɸoとoboが本体であると考えられます。

水を意味するopoまたはoboという語があって、これがappuappu(あっぶあっぷ)のように重ねられて、opo opoまたはobo oboと言っていた可能性があります。母音が連続するのを好まない昔の日本語であれば、すぐにopopoかoboboになるでしょう。

奈良時代の日本語には、ぼんやりしていることを意味するoɸoɸosi(おほほし)という語もありました。霧や霞とともに用いられている例が多く、oɸoɸoの根底にも水があると見られます。水を意味していた語が水蒸気、湯気、霧、雲などを意味するようになるパターンです。

水を意味するopoとその重ね型であるopopo(母音が連続するopo opoが好まれないため)から、上記のoboɸoru(溺ほる)/oboɸosu(溺ほす)/oboru(溺る)/obosu(溺す)とoɸoɸosi(おほほし)が生まれた可能性が高そうです。oɸoɸosi(おほほし)と同じくぼんやりしていることを意味するoboro(おぼろ)の語源もここと見られます。opoが水・水域を意味することができず、その隣接部分の盛り上がり、坂、丘、山などを意味するようになれば、冒頭のoɸo(大)とoɸo(多)の話につながっていきます。

koɸoru(凍る)、koɸori(氷)、koboru(こぼる)、kobosu(こぼす)の背後にも水が隠れていそうですが、このように発音が清音と濁音の間で揺れることは多かったのでしょう。

前回の記事の最後に、bukabuka(ぶかぶか)という語が出てきました。水を意味するpurk-(pur-、puk-)のような語がpukapuka(ぷかぷか)になるのはわかりやすいですが、bukabuka(ぶかぶか)になるのはわかりにくいです。しかし、今回の記事を読んだ後であれば、理解のための準備はできています。bukabuka(ぶかぶか)は水・水域から直接生まれたのではなく、意味が水・水域から盛り上がりや山に移って、その盛り上がりや山から生まれた語なのです。つまり、ɸukaɸuka(ふかふか)、ɸukura(ふくら)、ɸukuru(膨る)などと同類です。bukabuka(ぶかぶか)は大きいことを意味しています。

水・水域を意味していた語が盛り上がりや山を意味するようになり、盛り上がりや山を意味していた語が大きいことや多いことを意味するようになる話をしました。今回の話を補強するために、英語のmuchの語源も補説で明らかにしておきます。すでに述べたように、英語のmuchも大きいことと多いことを意味していました。

 

補説

ラテン語のmagnus(大きい)と古代ギリシャ語のmegas(大きい)

古代北ユーラシアに水のことをmark-、mirk-、murk-、merk-、mork-(mar-、mir-、mur-、mer-、mor-、mak-、mik-、muk-、mek-、mok-)のように言う巨大な言語群が存在し、フィンランド語にmärkä(濡れている)マルカ、meri(海)、mäki(丘)マキのような語が入ったことはお話ししました。フィンランド語のmäki(丘)やハンガリー語のmagas(高い)を見ると、盛り上がりや山を意味するmak-、mek-あるいはmag-、meg-のような語があったことが窺えます。

ここでインド・ヨーロッパ語族に目を向けると、ラテン語magnus(大きい)や古代ギリシャ語megas(大きい)のような語があります。-nusと-sは形容詞を作る時に付けられるもので、その前のmag-とmega-が大きいことを意味しています。その一方で、ヒッタイト語mekkiš(多い)やトカラ語maka(多い)のような語もあります。

ウラル語族とインド・ヨーロッパ語族の語彙を見ると、古代北ユーラシアの巨大な言語群で水を意味したmark-、mirk-、murk-、merk-、mork-(mar-、mir-、mur-、mer-、mor-、mak-、mik-、muk-、mek-、mok-)のような語が、盛り上がりや山を意味するようになり、さらに大きいことや多いことを意味するようになったのがわかります。

上に挙げたラテン語、古代ギリシャ語、ヒッタイト語、トカラ語と同源の語として、古英語にmicel(大きい、多い)ミチェルという語がありました([ki]が[tʃi]になり、[ke]が[tʃe]になるキチ変化を起こしています)。この語が、muchelを経て、muchになり、多いことのみを意味するようになりました。

 

参考文献

大野晋ほか、「岩波 古語辞典 補訂版」、岩波書店、1990年。

上代語辞典編修委員会、「時代別国語大辞典 上代編」、三省堂、1967年。