農耕民と狩猟採集民が出会う時、新しくやって来た農耕民は実は・・・

朝鮮半島の櫛文土器時代から無文土器時代への変化はかなり急激でした。

激動の時代、うまくいかなくなったアワとキビの栽培、うまくいかなくなったイネの栽培の記事でお話ししたように、イネの栽培が導入された無文土器時代のはじめから、朝鮮半島の人口は爆発的に増加しました。単純に、イネの栽培を行う人たちが朝鮮半島に入ってきて、その人たちが急激に増加したのかなと考えたくなりますが、これは、イネの栽培が伝わる前から朝鮮半島にいた人たちのことを無視しています。無文土器時代のはじめにイネの栽培を導入した人たちは、櫛文土器時代からいた人たちとなんらかの形で接触したはずであり、そこでなにがあったのか考えなければなりません。

櫛文土器が広がる朝鮮半島が、無文土器が広がる朝鮮半島に変化しましたが、考古学調査で全く同じ場所から櫛文土器と(早期の)無文土器の両方が出てくることは非常に少ないのです(Kim 2002、2003)。前回の記事で使用したKim 2006の図を再び掲げます。

イネの栽培が伝わる少し前の朝鮮半島では、かつてのアワ・キビの栽培は衰え、狩猟採集の性格が強い生活を送っていました(Ahn 2015)。Residential Siteは、狩猟採集民の生活の本拠(現代人にとっての家のようなもの)で、patchは、なんらかの食べ物がとれる場所です。Residential Siteから、様々なpatchへ出かけています。

全く同じ場所から櫛文土器と(早期の)無文土器の両方が出てくることは非常に少ないと述べましたが、特に、狩猟採集民のResidential Siteだった場所から櫛文土器と(早期の)無文土器の両方が出てくることが極端に少ないのです(Kim 2002、2003)。イネの栽培を行う人たちが朝鮮半島に入ってきて、狩猟採集民のResidential Site以外の場所に進出していったことが窺えます。イネの栽培を行う人たちがやって来た時の朝鮮半島の人口密度はとても低く、いきなり狩猟採集民と対立するようなことをする必要はなかったでしょう。

確かに、移民である農耕民が先住民である狩猟採集民に物理的に襲いかかるという展開にはなっていませんが、問題はなかったのかというと、決してそうではなかったはずです。イネの栽培を行う人たちは完全な農耕民であり、土地を確保して、そこを立入禁止にするという行動に出たことは間違いありません。これをしないと、栽培が成り立ちません。激動の時代、うまくいかなくなったアワとキビの栽培、うまくいかなくなったイネの栽培の記事で示したように、イネの栽培を行う人たちがやって来てから、朝鮮半島の人口は爆発的に増加しました。

Kim Jangsuk氏は、狩猟採集民は上の図のようにResidential Siteを中心として様々なpatchに食べ物を取りに行く生活を送っていたが、農耕民がpatchを含む土地を占有したり、patchに向かう途中の土地を占有したりしたために、狩猟採集民はかつての広く動きまわる生活を送れなくなってしまったと考えています(Kim 2002、2003)。狩猟採集民は一つのpatchにずっといるわけではないし、季節に合わせた移動でpatch全体が変わることもあります。農耕民に入り込まれてしまう「隙」が十分にあるのです。そして、農耕民は一度陣取ったら、もう動きません。狩猟採集民は、少し前まで自由に立ち入りできた土地が立入禁止になっているのをずいぶん経験したはずです。狩猟採集民にとっては、面食らう事態だったでしょう。しかも、そういうことをする農耕民がどんどん増えるのです。農耕民は一定の土地を確保して立入禁止にし、そこで栽培を行いますが、狩猟採集民が送ってきたなじみの生活は、それとは全然違います。

Kim氏が考えるように、狩猟採集民が生き残るためには、最終的には、ほぼすべてにおいて農耕民のやり方に従う形で、農耕民の社会に入れてもらうしかなかったと思われます(狩猟採集民が農耕民のいないところで生きようとしたこともあったでしょう。しかし、農耕民の爆発的な増加があっては、それはわずかな延命にしかならなかったでしょう)。朝鮮半島の考古学調査を見ても、単にイネの栽培が伝わっただけではないのです(Kim 2002、2003)。日々使用する各種道具類も、家も、墓も、櫛文土器時代にはなくて無文土器時代に現れたものが急速に支配的になります(現代人にとっては、墓は「たまに墓参りに行くかな」ぐらいの存在でしかないと思いますが、古代人にとっては、もっと重要な存在だったようです。墓は、考古学の最も重要な研究対象の一つです。一族が固まって暮らしていた時代と、一族が完全に離散し、大勢の知らない人たちあるいは知っているが親族でない人たちの中に埋もれて暮らしている時代では、墓に対する意識も大きく変わったと見られます。墓については、別のところで考察しましょう)。理屈を言えば、イネの栽培に伴うのが無文土器である必然性はなく、イネの栽培に櫛文土器が伴ってもよいでしょう。しかし、櫛文土器はすぐに姿を消します。既存の文化にイネの栽培がちょこんと加わったなどという事態ではないのです。

新しくやって来た農耕民の文化が前からいた狩猟採集民の文化を圧倒する構図が窺えますが、実はこの話は単純ではありません。櫛文土器時代から無文土器時代への変化が急激で、櫛文土器がすぐに無文土器に取って代わられたというのは、その通りです。しかし、注目すべきことに、無文土器時代の早い段階から、無文土器は一様ではなかったのです(Kim 2008)。無文土器というのは、非常に大雑把な括りです。無文土器時代の早い段階から、地域によって明らかに異なるタイプの無文土器が分布していたのです。

皆さんも、日本の歴史について論じる際に、「日本人はどこから来たのか」という具合に、どこか一箇所から来たことを前提にしているような問いを聞いたことがあるでしょう。朝鮮半島の歴史について論じる際にも、多分にこの傾向がありました。

無文土器時代の朝鮮半島の無文土器に様々なタイプがあることは前から知られていましたが、これに対しても、まずある一つのタイプの無文土器が朝鮮半島にあり、そこから時間の経過とともに様々なタイプの無文土器が生まれたのだという説明が試みられました。特に、Ahn Jaeho氏が最も古い無文土器ではないかと突帶刻目文土器(または刻目突帶文土器)に注目してから、この方向性の研究が盛んになりました(Ahn 2000、Kim 2008)。

しかし、発見された土器の数が増え、年代測定技術が向上するにつれて、まずある一つのタイプの無文土器が朝鮮半島にあり、そこから時間の経過とともに様々なタイプの無文土器が生まれたのだという説明に疑問が呈されるようになってきました(Kim 2008、Hwang 2014、2015)。無文土器時代の最も早い段階に、ある一つのタイプの無文土器ではなく、複数のタイプの無文土器があったのではないかというわけです。

Kim氏が注意しているように、古代人の移動は過度に単純に考えられてしまうことがよくあります(Kim 2008)。Kim氏は現代のアメリカの韓国系移民社会を例に挙げながら説明していますが、筆者は非常に適切な説明だと思います。Kim氏は、現代のアメリカに韓国系移民社会ができたのは、家族レベルの移動が蓄積した結果であると述べています。韓国を出たいと思わせるような大きな要因あるいはアメリカに住みたいと思わせるような大きな要因があったとしても、移動の決定は家族レベルで下されていると述べています。

Kim氏は、朝鮮半島にイネの栽培を導入した農耕民はどこから来たのだろうと考えています。そして、朝鮮半島にイネの栽培を導入した農耕民は一様ではなかったのではないかと感じ始めています(イネだけでなく、コムギとオオムギも朝鮮半島に現れます(Robbeets 2021))。しかし、一様でない農耕民が同じぐらいの時期(紀元前1500年頃~)に一斉に行動を起こすのには、大きな理由が要ります。農耕民はどこか(ある広い地域)から来た、そしてそのどこか(ある広い地域)では、去ろうと思わせるような大きな現象または出来事が起きていた・・・。Kim氏の考えはここまで来ています。

ここから先は、筆者の考えを述べることにしましょう。

いったん話を言語学に移し、再び考古学に戻ることにします。

日本語の起源を解明するうえでの山場を迎えます。

 

参考文献

英語

Ahn S. et al. 2015. Sedentism, settlements, and radiocarbon dates of Neolithic Korea. Asian Perspectives 54(1): 113-143.

Kim J. 2003. Land-use conflict and the rate of the transition to agricultural economy: A comparative study of southern Scandinavia and central-western Korea. Journal of Archaeological Method and Theory 10(3): 277-323.

Kim J. 2006. Resource patch sharing among forages: Lack of territoriality or strategic choice? In Grier C. et al., eds., Beyond affluent foragers: Rethinking hunter-gatherer complexity, Oxbow Books, 168-190.

Robbeets M. et al. 2021. Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature 599(7886): 616-621.

その他の言語

Ahn J. 2000. 韓國 農耕社會의 成立. 한국고고학보 43: 41-66.(朝鮮語)

Hwang J. 2014. 중서부지역 무문토기시대 전기의 시간성 재고: 14C연대 분석을 중심으로. 한국고고학보 92: 36-79.(朝鮮語)

Hwang J. 2015. 청동기시대 전기 편년 연구 검토: 형식 편년과 유형론, 그리고 방사성탄소연대. 고고학 14(1): 69-98.(朝鮮語)

Kim J. 2002. 남한지역 후기신석기-전기청동기 전환: 자료의 재검토를 통한 가설의 제시. 한국고고학보 48: 93-133.(朝鮮語)

Kim J. 2008. 무문토기시대 조기설정론 재고. 한국고고학보 69: 94-115.(朝鮮語)

人類の大きな転機、完全に変わった土地の意味・意義

東アジアの農耕の起源、とても時間がかかる革命、二つの重要な概念の記事では、人間が植物の栽培を開始する場面について考えました。人間の行動に、以下の変化が生じました。

(旧) 自然のままの環境下・条件下で生育している植物を食べていた。
(新) 人間が選んだあるいは作った環境下・条件下で生育している植物を食べている。

旧方式に代わる新方式では、「植物を人間が選んだあるいは作った環境下・条件下で生育させる」という行為が出てきます。これが「栽培」です。旧方式の代わりに新方式を採用したことで生じる直接的効果は、自分たちが欲する植物がより確実に/安定して得られる、より多く得られる、より少ない労力で得られることなどであると述べました。実際、栽培を開始した人たちの関心は、食べ物(食べ物をいかに得るかということ)だったにちがいありません。

しかし、「植物を人間が選んだあるいは作った環境下・条件下で生育させる」という行為を開始した時から、つまり「栽培」を開始した時から、同時に意味深長な変化が起き始めました。この意味深長な変化は、のちの人類の歴史に大きな影を落とすことになりました。それは「土地」の話です。

立入禁止になる土地

ある一続きのプロセス(歴史)があっても、そのプロセスを構成する段階の数がとても多くなると、最初の段階と最後の段階に関係があることが非常に見えにくくなってしまいます。しかしそれでも、やはり遠い関係があり、最初の段階(大昔)から考えないと、最後の段階(現代)を本当に理解することができません。

栽培という行為からは、土地の問題が生じました。例えば、皆さんの家が以下のようになっていたら、どうでしょうか。

これは困ります。これではどこにも行けません。だから、道があって、道は「公共のスペース(あるいは共有されるスペース)」になっているのです。

私たちが生きている現代では、「公共のスペース」はすっかり縮小しています。

しかしかつては、「公共のスペース」が一面に広がっていたのです。そして重要なことに、その「公共のスペース」から、各個人あるいは各集団が自分の食べるものを得ていたのです。

この状況は、冒頭に説明した栽培という行為の登場によって、変わり始めます。例えば、ある人たちがなんらかの植物の栽培を開始したとしましょう。ただ植物を栽培するだけで、大丈夫でしょうか。いえ、大丈夫でありません。近くを通った人たちが、その植物を見つけて、取っていってしまうでしょう。人類は、目の前に植物があるのを見つけては、取って食べる、目の前に動物がいるのを見つけては、取って食べる、ずっとそうやって生きてきたのです。栽培という行為には、土地に他の人たちが立ち入ることを禁止するという行為が伴います。そうしないと、栽培という行為が成り立ちません。冒頭の旧方式から新方式に移行したことで、このような事情が生じてきたのです。

朝鮮半島の櫛文土器時代と無文土器時代

朝鮮半島の櫛文土器時代と無文土器時代の話に戻りましょう。

波瀾万丈な朝鮮半島の歴史、渡来人の正体がなかなか明らかにならなかった理由の記事でお話ししたように、朝鮮半島は、ほとんど人がいない状態が長く続いた後、紀元前6000年頃から活気を取り戻し始めました。

Kim Jangsuk氏が、考古学調査に基づきながら、櫛文土器時代の朝鮮半島の人々の生活を描き出しています(図はKim 2006より引用)。

描かれているのは、基本的に狩猟採集民の生活です(櫛文土器時代の途中(紀元前4000年頃)からアワ・キビの栽培が現れましたが、それでも櫛文土器時代は、アワ・キビの栽培は補助的な位置づけにあり、狩猟採集が中心の時代でした(Kim 2006))。上の図には、三つの人間集団が示されています。Residential Siteは、それぞれの人間集団の生活の本拠で、現代人にとっての家のようなものです。patchは、なんらかの食べ物がとれる場所です。Residential Siteから、様々なpatchへ出かけています。

狩猟採集民は移動し、農耕民は移動しないという単純なイメージで捉えられてしまうことがありますが、狩猟採集民の移動は単純には語れません。そもそも、お気に入りの食べ物がいくつかあって、それらの食べ物がわりと近くでとれる、そんな都合のよい場所があったら、人はそこに生活の本拠を置き、なかなか変えないでしょう。それらの食べ物が満足にとれなくなるまで、変えないかもしれません。

狩猟採集民の行動を語るうえでもう一つ忘れてはならないのが、狩猟採集民は季節の変化に合わせて移動することもあったということです。季節とともに植物・動物の世界の様子も変わります。それに合わせて移動するわけです。狩猟採集民の生活は、現代人の生活とは違う複雑さも持っていたのです。

櫛文土器時代の朝鮮半島の人々の生活を描いた上の図では、それぞれの人間集団が自分たちの生活の本拠(Residentail Site)を持っていますが(補助的に行われることのあったアワ・キビの栽培は、Residential Siteの近くで小規模に行われたのでしょう)、肝心の食べ物がとれる場所(patch)は共有されています。これは本質的な点です。Kim氏はなぜこうなっているのかと考えていますが、やはりKim氏が指摘するように、上の図のような状況で、ある人間集団が、あるpatchを独占し、他の人間集団のアクセスを防ぐというのは、好ましい選択ではなかったと思われます。そのようなことをすれば、他の人間集団のアクセスを防ぐために多大な時間・労力を投入しなければならなくなったり、他の人間集団と対立して様々なpatchにアクセスできなくなったりするリスクがあります。櫛文土器時代の朝鮮半島の各人間集団は、近くのpatchだけでなく、遠くのpatchにも出かけていました。わずかな種類の食べ物しか食べられなくなること、わずかな種類の食べ物に依存しなければならなくなることは、望んでいなかったでしょう。近隣の人間集団との交わりがいくらかでもあったら(現代の国境のようなものがなければ、交わりは当然生じます)、上の図のような構図は十分に存続しえたのでしょう。

しかし、上の図のような構図の外から、全然違う生活様式を持つ人間集団が入ってくると、状況が一変します。朝鮮半島が櫛文土器時代から無文土器時代へ急激に変化した局面を見ることにしましょう。なにが起きたのでしょうか。

 

補説

縄文時代の農耕?

朝鮮半島の櫛文土器時代には、日本の縄文時代に似たところもあります。

日本の縄文時代に農耕は存在したのかと盛んに論じられたことがありました(Matsui 2006)。これは、東アジアの農耕の起源、とても時間がかかる革命、二つの重要な概念の記事でも述べましたが、「農耕」という言葉をどのような意味で使っているかによります。単に栽培(植物を人間が選んだあるいは作った環境下・条件下で生育させること)を意味しているのか、それとも栽培が組織的、体系的、大規模に行われて、それが社会形成の中心になることまで意味しているのかということです。

日本の縄文時代に栽培は行われていたのかといえば、それはYESです。食用あるいは非食用として、クリ、ウルシ、アサ、ヒョウタン、エゴマ、ダイズなどが栽培されていたことが明らかになっています(Noshiro 2014)。ただし、それが社会形成の中心になるという感じではなかったのです。

朝鮮半島の櫛文土器時代にアワやキビの栽培が現れたが、それが補助的な位置づけにあったのと同様です。

朝鮮半島の櫛文土器時代に行われていた栽培行為と、日本の縄文時代に行われていた栽培行為に、もっともっと長い時間が与えられていたら、なにが起きたかわかりません。ひょっとしたら、なんらかの発展があったかもしれません。しかし、朝鮮半島の場合にも、日本の場合にも、外から入って来た人々が状況を変化させるほうが先だったのです。

※ちなみに、アメリカ大陸(ヨーロッパの人々がやって来る前のインディアンだけの世界)でも、植物の栽培が複数の場所で始まったことが知られています(Smith 1995、Bellwood 2005)。例えば、ジャガイモやトマトはアメリカ大陸原産です。人類の歴史を見渡すと、多数とは言えないまでも、いくつかの場所で植物の栽培が始まっており、奇跡的な出来事というわけではないようです。もとは、お気に入りの植物をすぐ近くに生育させてみようという素朴な試みだったのでしょう。

 

参考文献

Bellwood P. 2005. First Farmers: The Origins of Agricultural Societies. Blackwell.

Kim J. 2006. Resource patch sharing among forages: Lack of territoriality or strategic choice? In Grier C. et al., eds., Beyond affluent foragers: Rethinking hunter-gatherer complexity, Oxbow Books, 168-190.

Matsui A. et al. 2006. The question of prehistoric plant husbandry during the Jomon Period in Japan. World Archaeology 38(2): 259-273.

Noshiro S. et al. 2014. Pre-agricultural management of plant resources during the Jomon period in Japan — a sophisticated subsistence system on plant resources. Journal of Archaeological Science 42: 93-106.

Smith B. D. 1995. The origins of agriculture in the Americas. Evolutionary Anthropology 3: 174-184.

激動の時代、うまくいかなくなったアワとキビの栽培、うまくいかなくなったイネの栽培

まずは、11月にニュースになったM. Robbeets氏らの論文(Robbeets 2021)の図をもう一度掲げましょう。

紀元前4500年頃(6500年前頃)に朝鮮半島にアワ・キビの栽培が伝わったこと、そして紀元前1500年頃(3500年前頃)にイネの栽培(稲作ともいいます)が伝わったことが示されています。これは大体その通りです。

しかし、朝鮮半島の歴史を考えるうえで注意しなければならないのは、紀元前4500年頃に伝わったアワ・キビの栽培が、その後ずっとうまくいったかというと、そうはならなかったということです。同様に、紀元前1500年頃に伝わったイネの栽培が、その後ずっとうまくいったかというと、そうはなりませんでした。このことが、朝鮮半島の歴史を非常に複雑にし、また独特にしています。

朝鮮半島は、面積が小さいということもあり、世界の中でも徹底的に考古学調査が行われてきた地域の一つです。発見された遺跡・遺構・遺物の数が増え、年代測定技術が向上するにつれて、過去の人口変動を推定することが可能になってきました。

Ahn Sungmo氏らの研究(Ahn 2015a)やOh Yongje氏らの研究(Oh 2017)はその先端を行く研究ですが、これらの研究は以下のことを示しています。

(1)アワ・キビの栽培が伝わった後に朝鮮半島の人口はある程度増加したが、まもなく減少し、イネの栽培が伝わろうかという頃には人口は少なかった。

(2)イネの栽培が伝わった後に朝鮮半島の人口は爆発的に増加した。

(3)紀元前1500年頃から始まった朝鮮半島の人口の爆発的な増加は、紀元前1000年を少し過ぎたところでピークを迎え、急激な減少に転じた。

言葉だけではイメージしにくいかもしれないので、Oh氏らが人口変動の推定に使っている考古学データも示しておきます(Oh 2017)。

※前回の記事でお話ししたように、紀元前1500年頃(3500年前頃)より前が櫛文土器時代(Chulmun period)で、紀元前1500年頃(3500年前頃)より後が無文土器時代(Mumun period)です。

今回の記事では深入りしませんが、朝鮮半島の人口が紀元前1000年を少し過ぎたところで急激な減少に転じたのは注目に値します。まさにこの時期から、日本列島にイネの栽培(稲作)が現れ始めるからです(Miyamoto 2019)。この朝鮮半島の人口の減少は、宮本一夫氏らが指摘している気候変動(寒冷化)が原因と考えられますが、朝鮮半島の人口の減少の仕方からして、相当に深刻な事態であったと見られます(特にイネなどの穀物の栽培可能範囲の限界近くにいる人たちは、わずかな気温変化でも致命的なダメージを受けてしまいます)。一つの言語が朝鮮半島から日本列島に渡っただけとは到底考えられず、一つの語族が朝鮮半島から日本列島に渡っただけとも考えづらいです。複数の語族が朝鮮半島から日本列島に流れ込んだ可能性が高いです。朝鮮半島から日本列島に渡った人々が一様でなかったことも、考古学的に確認されています(Miyamoto 2019)。

朝鮮半島のイネの栽培(稲作)は、紀元前1000年を少し過ぎたところで大きく落ち込み、しばらく持ちこたえた後、再び大きく落ち込んでしまいました。なんと、導入されたイネの栽培(稲作)がほとんど行われないところまで落ち込んでしまいました(Ahn 2010)。そういう激動の歴史が朝鮮半島にはありました。

朝鮮半島の人口の変化からは、紀元前4500年頃から始まったアワ・キビの栽培の伝来に比べて、紀元前1500年頃から始まったイネの栽培の伝来がとてつもなく大きな出来事だったことが窺えます。日本人や日本語の起源を考えるうえで重要なのも、朝鮮半島にイネの栽培が導入され、朝鮮半島が櫛文土器時代から無文土器時代に入る紀元前1500年頃の局面です。

新たな謎が浮上

冒頭のRobbeets氏らの論文(Robbeets 2021)の図は、歴史が少しずつ着実に明らかになっている現状を示していますが、同時に大きな問題も浮き彫りにしています。

すでに述べたように、朝鮮半島にイネの栽培が導入され、朝鮮半島が櫛文土器時代から無文土器時代に入る紀元前1500年頃の局面が非常に重要になってきます。イネの栽培が伝わる少し前の朝鮮半島は、かつてのアワ・キビの栽培と定住傾向がすっかり衰えた状態でした(Ahn 2015b)。そこへ、イネの栽培を行う人たちが入って来たのです。後続の記事でKim Jangsuk氏のすぐれた考古学研究を紹介しますが、紀元前1500年頃から後の朝鮮半島の歴史は、イネの栽培を導入した人たちに明らかに有利な形で展開していきます(Kim 2002、2003)。

ここで大きな謎が生じます。11月にRobbeets氏らの論文(Robbeets 2021)がニュースになった時に、日本語はもともと遼河流域でアワ・キビを栽培していた人々の言語だったという情報が流れました(日本語の原郷は「中国東北部の農耕民」 国際研究チームが発表)。確かに、Robbeets氏らはそう考えているし、遼河流域でアワ・キビを栽培していた人々の言語が日本語になったという点では、筆者の考えも同じです。

しかし、著しい発展を見せる考古学は、紀元前1500年頃から朝鮮半島にイネの栽培を導入した人たちが朝鮮半島で急速に支配的になったことをはっきりと示しています(Kim 2002、2003)。それより前に遼河流域からアワ・キビの栽培を導入した人たちの言語が日本語になったと考えるのは、かなり無理があります。日本語の系統問題に関係がありそうなのは、冒頭のRobbeets氏らの論文(Robbeets 2021)の図に描かれている赤い矢印のほうではなく、深緑の矢印のほうなのです。これは一体どういうことでしょうか。

ちょっと複雑になってきましたが、もし、Robbeets氏らが考えるように、そしてまた筆者が考えるように、遼河流域で話されていた言語が日本語になったのだとしたら、そのもとになった遼河流域の言語は、山東省のあたりか遼東半島に移動し、そこから朝鮮半島に入った可能性が濃厚です。遼河流域でアワ・キビの栽培を行っていた人たちが、山東省のあたりか遼東半島に移動し、そこでイネの栽培も行うようになったという解釈です(他の言語の話者が影響を与えたということです)。

この問題を本格的に検討する前に、Kim氏(Kim 2002、2003)がイネの栽培を行う人たちが朝鮮半島に入ってきた時の状況を詳細に記述しており、朝鮮半島の歴史はもちろん、人類の歴史を考えるうえでも大変重要で含蓄深い研究なので、まずはそれを紹介することにします。

 

参考文献

英語

Ahn S. 2010. The emergence of rice agriculture in Korea: Archaeobotanical perspectives. Archaeological and Anthropological Sciences 2(2): 89-98.

Ahn S. et al. 2015a. Temporal fluctuation of human occupation during the 7th-3rd millennium cal BP in the central-western Korean Peninsula. Quaternary International 384: 28-36.

Ahn S. et al. 2015b. Sedentism, settlements, and radiocarbon dates of Neolithic Korea. Asian Perspectives 54(1): 113-143.

Kim J. 2003. Land-use conflict and the rate of the transition to agricultural economy: A comparative study of southern Scandinavia and central-western Korea. Journal of Archaeological Method and Theory 10(3): 277-323.

Miyamoto K. 2019. The spread of rice agriculture during the Yayoi Period: From the Shandong Peninsula to the Japanese Archipelago via the Korean Peninsula. Japanese Journal of Archaeology 6: 109-124.

Oh Y. et al. 2017. Population fluctuation and the adoption of food production in prehistoric Korea: Using radiocarbon dates as a proxy for population change. Radiocarbon 59(6): 1761-1770.

Robbeets M. et al. 2021. Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature 599(7886): 616-621.

その他の言語

Kim J. 2002. 남한지역 후기신석기-전기청동기 전환: 자료의 재검토를 통한 가설의 제시. 한국고고학보 48: 93-133. (朝鮮語)