人類の大きな転機、完全に変わった土地の意味・意義

東アジアの農耕の起源、とても時間がかかる革命、二つの重要な概念の記事では、人間が植物の栽培を開始する場面について考えました。人間の行動に、以下の変化が生じました。

(旧) 自然のままの環境下・条件下で生育している植物を食べていた。
(新) 人間が選んだあるいは作った環境下・条件下で生育している植物を食べている。

旧方式に代わる新方式では、「植物を人間が選んだあるいは作った環境下・条件下で生育させる」という行為が出てきます。これが「栽培」です。旧方式の代わりに新方式を採用したことで生じる直接的効果は、自分たちが欲する植物がより確実に/安定して得られる、より多く得られる、より少ない労力で得られることなどであると述べました。実際、栽培を開始した人たちの関心は、食べ物(食べ物をいかに得るかということ)だったにちがいありません。

しかし、「植物を人間が選んだあるいは作った環境下・条件下で生育させる」という行為を開始した時から、つまり「栽培」を開始した時から、同時に意味深長な変化が起き始めました。この意味深長な変化は、のちの人類の歴史に大きな影を落とすことになりました。それは「土地」の話です。

立入禁止になる土地

ある一続きのプロセス(歴史)があっても、そのプロセスを構成する段階の数がとても多くなると、最初の段階と最後の段階に関係があることが非常に見えにくくなってしまいます。しかしそれでも、やはり遠い関係があり、最初の段階(大昔)から考えないと、最後の段階(現代)を本当に理解することができません。

栽培という行為からは、土地の問題が生じました。例えば、皆さんの家が以下のようになっていたら、どうでしょうか。

これは困ります。これではどこにも行けません。だから、道があって、道は「公共のスペース(あるいは共有されるスペース)」になっているのです。

私たちが生きている現代では、「公共のスペース」はすっかり縮小しています。

しかしかつては、「公共のスペース」が一面に広がっていたのです。そして重要なことに、その「公共のスペース」から、各個人あるいは各集団が自分の食べるものを得ていたのです。

この状況は、冒頭に説明した栽培という行為の登場によって、変わり始めます。例えば、ある人たちがなんらかの植物の栽培を開始したとしましょう。ただ植物を栽培するだけで、大丈夫でしょうか。いえ、大丈夫でありません。近くを通った人たちが、その植物を見つけて、取っていってしまうでしょう。人類は、目の前に植物があるのを見つけては、取って食べる、目の前に動物がいるのを見つけては、取って食べる、ずっとそうやって生きてきたのです。栽培という行為には、土地に他の人たちが立ち入ることを禁止するという行為が伴います。そうしないと、栽培という行為が成り立ちません。冒頭の旧方式から新方式に移行したことで、このような事情が生じてきたのです。

朝鮮半島の櫛文土器時代と無文土器時代

朝鮮半島の櫛文土器時代と無文土器時代の話に戻りましょう。

波瀾万丈な朝鮮半島の歴史、渡来人の正体がなかなか明らかにならなかった理由の記事でお話ししたように、朝鮮半島は、ほとんど人がいない状態が長く続いた後、紀元前6000年頃から活気を取り戻し始めました。

Kim Jangsuk氏が、考古学調査に基づきながら、櫛文土器時代の朝鮮半島の人々の生活を描き出しています(図はKim 2006より引用)。

描かれているのは、基本的に狩猟採集民の生活です(櫛文土器時代の途中(紀元前4000年頃)からアワ・キビの栽培が現れましたが、それでも櫛文土器時代は、アワ・キビの栽培は補助的な位置づけにあり、狩猟採集が中心の時代でした(Kim 2006))。上の図には、三つの人間集団が示されています。Residential Siteは、それぞれの人間集団の生活の本拠で、現代人にとっての家のようなものです。patchは、なんらかの食べ物がとれる場所です。Residential Siteから、様々なpatchへ出かけています。

狩猟採集民は移動し、農耕民は移動しないという単純なイメージで捉えられてしまうことがありますが、狩猟採集民の移動は単純には語れません。そもそも、お気に入りの食べ物がいくつかあって、それらの食べ物がわりと近くでとれる、そんな都合のよい場所があったら、人はそこに生活の本拠を置き、なかなか変えないでしょう。それらの食べ物が満足にとれなくなるまで、変えないかもしれません。

狩猟採集民の行動を語るうえでもう一つ忘れてはならないのが、狩猟採集民は季節の変化に合わせて移動することもあったということです。季節とともに植物・動物の世界の様子も変わります。それに合わせて移動するわけです。狩猟採集民の生活は、現代人の生活とは違う複雑さも持っていたのです。

櫛文土器時代の朝鮮半島の人々の生活を描いた上の図では、それぞれの人間集団が自分たちの生活の本拠(Residentail Site)を持っていますが(補助的に行われることのあったアワ・キビの栽培は、Residential Siteの近くで小規模に行われたのでしょう)、肝心の食べ物がとれる場所(patch)は共有されています。これは本質的な点です。Kim氏はなぜこうなっているのかと考えていますが、やはりKim氏が指摘するように、上の図のような状況で、ある人間集団が、あるpatchを独占し、他の人間集団のアクセスを防ぐというのは、好ましい選択ではなかったと思われます。そのようなことをすれば、他の人間集団のアクセスを防ぐために多大な時間・労力を投入しなければならなくなったり、他の人間集団と対立して様々なpatchにアクセスできなくなったりするリスクがあります。櫛文土器時代の朝鮮半島の各人間集団は、近くのpatchだけでなく、遠くのpatchにも出かけていました。わずかな種類の食べ物しか食べられなくなること、わずかな種類の食べ物に依存しなければならなくなることは、望んでいなかったでしょう。近隣の人間集団との交わりがいくらかでもあったら(現代の国境のようなものがなければ、交わりは当然生じます)、上の図のような構図は十分に存続しえたのでしょう。

しかし、上の図のような構図の外から、全然違う生活様式を持つ人間集団が入ってくると、状況が一変します。朝鮮半島が櫛文土器時代から無文土器時代へ急激に変化した局面を見ることにしましょう。なにが起きたのでしょうか。

 

補説

縄文時代の農耕?

朝鮮半島の櫛文土器時代には、日本の縄文時代に似たところもあります。

日本の縄文時代に農耕は存在したのかと盛んに論じられたことがありました(Matsui 2006)。これは、東アジアの農耕の起源、とても時間がかかる革命、二つの重要な概念の記事でも述べましたが、「農耕」という言葉をどのような意味で使っているかによります。単に栽培(植物を人間が選んだあるいは作った環境下・条件下で生育させること)を意味しているのか、それとも栽培が組織的、体系的、大規模に行われて、それが社会形成の中心になることまで意味しているのかということです。

日本の縄文時代に栽培は行われていたのかといえば、それはYESです。食用あるいは非食用として、クリ、ウルシ、アサ、ヒョウタン、エゴマ、ダイズなどが栽培されていたことが明らかになっています(Noshiro 2014)。ただし、それが社会形成の中心になるという感じではなかったのです。

朝鮮半島の櫛文土器時代にアワやキビの栽培が現れたが、それが補助的な位置づけにあったのと同様です。

朝鮮半島の櫛文土器時代に行われていた栽培行為と、日本の縄文時代に行われていた栽培行為に、もっともっと長い時間が与えられていたら、なにが起きたかわかりません。ひょっとしたら、なんらかの発展があったかもしれません。しかし、朝鮮半島の場合にも、日本の場合にも、外から入って来た人々が状況を変化させるほうが先だったのです。

※ちなみに、アメリカ大陸(ヨーロッパの人々がやって来る前のインディアンだけの世界)でも、植物の栽培が複数の場所で始まったことが知られています(Smith 1995、Bellwood 2005)。例えば、ジャガイモやトマトはアメリカ大陸原産です。人類の歴史を見渡すと、多数とは言えないまでも、いくつかの場所で植物の栽培が始まっており、奇跡的な出来事というわけではないようです。もとは、お気に入りの植物をすぐ近くに生育させてみようという素朴な試みだったのでしょう。

 

参考文献

Bellwood P. 2005. First Farmers: The Origins of Agricultural Societies. Blackwell.

Kim J. 2006. Resource patch sharing among forages: Lack of territoriality or strategic choice? In Grier C. et al., eds., Beyond affluent foragers: Rethinking hunter-gatherer complexity, Oxbow Books, 168-190.

Matsui A. et al. 2006. The question of prehistoric plant husbandry during the Jomon Period in Japan. World Archaeology 38(2): 259-273.

Noshiro S. et al. 2014. Pre-agricultural management of plant resources during the Jomon period in Japan — a sophisticated subsistence system on plant resources. Journal of Archaeological Science 42: 93-106.

Smith B. D. 1995. The origins of agriculture in the Americas. Evolutionary Anthropology 3: 174-184.