「尻(しり)」の語源

この記事は「背(せ)」の語源の続きです。

se(背)の語源が明らかになったので、siri(尻)の語源について考えましょう。

フィンランド語のselkä(背)セルカは日本語のse(背)とは関係ないことがわかりました。では、フィンランド語のselkä(背)は日本語と全く関係ないのでしょうか。どうやら、そうではないようです。身体部位を表す語は隣接部位・関連部位に意味がずれやすいということを思い出してください。怪しいのはsiri(尻)、そしてusiro(うしろ)です。

岩波古語辞典に、usiro(うしろ)はmi(身)の古形である*muとsiri(尻)の古形である*siroがくっついた*musiroが変化したものであるという説明があります(大野1990)。これは鋭い洞察だと思います。

現代の日本語でも白くなった髪の毛のことをsiragaと言いますが、siraとkaが単独で現れることはありません。単独で現れる場合はsiroとkeです。単独の*siraはsiro(白)に変化し、単独の*kaはke(毛)に変化したが、それよりも前から複合語として存在していたsiragaはそのまま残ったのです。

同様にして、*muはmi(身)に変化し、*siroはsiri(尻)に変化したが、それよりも前から複合語として存在していた*musiroはそのまま残ったと思われます。「抱く」を意味するmudakuとudakuなどが並存していたように、*musiroとusiroが並存し、最終的にusiroが残ったと考えられます。

siri(尻)の古形と考えられる*siroは、「尻」を意味していた語ではないと思います。「体」を意味する*muと「尻」を意味する*siroをくっつけるのはなんとも奇妙です。*siroは「うしろ」を意味していたはずです。*siro→siriの系統がかつての意味を保つことができず、「尻」を意味するようになったのは、ベトナム系の言語から入ってきた*so→seの系統の影響が大きかったと思います。

日本語の*siroが「うしろ」を意味していたとすると、フィンランド語のselkä(背)と意味的にはよく合います。注意しなければならないのは発音です。フィンランド語のselkä(背)は「セルカ」のように発音しますが、推定される祖形はselkVではありません。実は、フィンランド語は、ウラル語族で一般的なsjeおよびʃeという音を残していない言語なのです。

sje ― 「スィ」と「エ」を滑らかに速く続けて「スィエ」と読んだような音です。日本語と英語にはない音ですが、例えばロシア語で「7」を意味するсемьに出てくる音です(Forvoというユニークなウェブサイトがあり、そこで世界の様々な言語の発音を聞くことができます)。ウラル語族の研究者は、sjの代わりにśと書くことがあります。

ʃe ― 「シェ」によく似た音です。ʃという発音記号は、英語の学習でおなじみだと思います。ウラル語族の研究者は、ʃの代わりにšと書くことがあります。

フィン・ウゴル系の言語とサモエード系の言語の音韻組織を考え合わせると、ウラル語族に古くから存在していたのはsjeとʃeのうちの前者と見られ、フィンランド語selkä(背)、エストニア語selg(背)、サーミ語čielgi(背)チエルギ、マリ語ʃələʒ(腰)シュルジュなどの祖形は、*sjelkVと推定されます。

*sjelkVを日本語に残そうとするとどうなるでしょうか(上に述べたように、sjeは「スィエ」のような音です)。昔の日本語には、sjeという音も、エ列のseという音もなかったと考えられます。-lk-という子音の連続も許されません。おまけに、ウラル語族の言語にはlとrがありますが、日本語にはrしかありません。このように、日本語のほうには非常に厳しい制約があります。

これらの制約があると、sjeの部分はsiとするしかなく、lkVの部分はrVまたはkVとするしかありません。つまり、*sjelkVはsirVまたはsikVとするしかないのです。フィンランド語のselkä(背)などの推定祖形*sjelkVは、「うしろ」を意味した古代日本語の*siroに結びつくと考えられます。日本語にエ列の音がなかったこともあり、形が大きく変わりました。

フィンランド語のselkä(背)や古代日本語の*siro(うしろ)のもとになっていると見られる*sjelkVは、「背骨」を意味した古代中国語のtsjek(脊)ツィエクに形が似ており、気になるところです。*sjelkVの二子音-lk-がそのまま残ったのがフィンランド語のselkä(背)、*sjelkVの子音kが脱落したのが古代日本語の*siro(うしろ)、*sjelkVの子音lが脱落したのが古代中国語のtsjek(脊)ツィエクではないかということです。

実を言うと、フィンランド語のselkä(背)などと関係があるのではないかと、筆者の心にずっと引っかかっていた語がもう一つあります。それは、英語のself(自分)です(ドイツ語selbst、オランダ語zelf、スウェーデン語självフェルヴ、アイスランド語sjálfシャルフなども同類です)。

ちなみに、英語のwolf(オオカミ)は、同じ意味のロシア語volk、ポーランド語wilk、リトアニア語vilkas、ラトビア語vilksなどと同源で、英語のwolfの末子音fはかつてkであったことが確実です。同じように、英語のselfの末子音fもかつてkであった可能性が大です。

しかし、フィンランド語のselkä(背)と英語のself(自分)の間になにか関係がありそうだと思いながらも、それがどんな関係なのかわからず、筆者は頭を抱えました。どうしたら「背」と「自分」が結びつくのだろう、なにか特別な宗教や信仰でもあるのだろうか、そんなことを考えていました。

 

参考文献

大野晋ほか、「岩波 古語辞典 補訂版」、岩波書店、1990年。