日本人のY染色体ハプログループOの研究、人と稲作と言語の広がりは必ずしも一致しない

日本人に最も多く見られるY染色体DNAはO系統で、次に多く見られるのはD系統であると以前にお話ししました(アイヌ人と沖縄人のDNAを比べると・・・(Y染色体ハプログループDの研究)を参照、図はWang 2013より引用)。

O系統は日本の近隣に非常に多く見られ、D系統は日本の近隣にほとんど見られません。この点で、O系統とD系統は対照的です。基本的に、O系統は弥生時代初めから稲作とともに日本列島に入ってきた系統で、D系統はそれ以前から日本列島に存在した系統と考えられます(縄文時代の途中からO系統が日本列島に入ってきていた可能性もありますが、話がそれてしまうので、その可能性はここでは脇に置いておきます)。

東アジア・東南アジアに見られるY染色体DNAの大部分はO系統で、O系統は大雑把に言うと以下の四つの下位系統に分けることができます(東アジア・東南アジア全体でごくわずかしか見られないマイナーな下位系統は図から省いてあります)。

この中で、日本人に最も多く見られるのはO-M176(旧O2b)、次に多く見られるのはO-M122(旧O3)で、O-M119(旧O1)とO-M95(旧O2a)はわずかしか見られません(Nonaka 2007では、西日本(沖縄を除く)で36.1%、23.9%、4.1%、1%、関東で30.7%、14.5%、2.2%、0%となっており、沖縄人とアイヌ人を除けば、大体このようになりそうです)。日本人に最も多く見られるO-M176は特殊で、分布がほとんど朝鮮半島と日本列島に限られています(Xue 2006)。O-M176は、朝鮮半島と日本列島に多く見られ、稲作に関係がありそうなので、中国のどこかにも見られそうですが、中国には全くと言ってよいほど見られないのです。なぜでしょうか。

Li Hui氏らの興味深い研究があります(Li 2007)。長江文明が栄えていた頃の長江流域の住民のY染色体DNAを調べていますが、長江下流域ではO-M119が支配的で、長江中流域ではO-M95が支配的だったことが明らかになっています。これは興味深い結果です。稲作発祥の地である長江下流域と中流域で支配的だったO-M119とO-M95が、日本列島にはわずかしか見られないからです。

ちなみに、長江下流域で支配的だったO-M119(その主な下位系統としてO-M110があります)は、特に台湾(正確には台湾原住民)とフィリピンに多く見られます(Delfin 2011)。中国南部の福建省のあたりから台湾を経由してさらに南方に広がっていったオーストロネシア語族の話者と関係があると考えられます(台湾とオーストロネシア語族を参照)。

O-M119が日本にわずかしか見られないことから、長江下流域あるいはさらに南方にいた稲作民が日本に直接来ることがあったとしても、それが主流でなかったことは明らかです。

長江中流域で支配的だったO-M95は、現代では特にオーストロアジア語族(ベトナム系言語)の分布地域(インドシナ半島からインド内部にかけて)に多く見られ、マレーシアとインドネシア西部にもある程度見られます(Chaubey 2011)。

上に示したO系統の系統図を見ると、O-M95とO-M176が比較的近い関係にあるので、過去にはこんな考えもありました。長江中流域で稲作が始まり、そこにいた人間集団の一部がインドシナ半島に向かい、一部が朝鮮半島と日本列島に向かったのではないかという考えです。要するに、O-M95とO-M176の共通祖先型O-M268(旧O2)がかつて長江中流域に存在し、一下位系統であるO-M95がインドシナ半島に向かい、別の下位系統であるO-M176が朝鮮半島と日本列島に向かったのではないかと言いたいのです。しかし、長江中流域から稲作が広がった出来事と、Y染色体DNAのO-M268がO-M95とO-M176に分かれた出来事は、時間的に全然合いません。長江中流域から稲作が広がったのは、せいぜい過去1万年ぐらいのことですが、Y染色体DNAのO-M268がO-M95とO-M176に分かれたのは、2.5~3万年前ぐらいのことです(www.23mofang.com/ancestry/ytree/O-M268を参照、O-M176はO-P49と記されることもあります)。稲作開始よりはるか前に、O-M95とO-M176は分かれていたのです。稲作開始の時点では、O-M95を持つ人間集団が長江中流域で稲作を行い、O-M176を持つ人間集団はいくらか離れたところにいて、稲作を行っていなかったと見られます。O-M268の下位系統は長江下流域に見られないので、O-M268が中国南部の内陸に存在し、そこからインドシナ半島方面と朝鮮半島・日本列島方面に分かれたのではないかというG. Chaubey氏らの考えは、的を射ているのではないかと思われます(Chaubey 2020)。

本記事で示したのは、一例にすぎません。そもそも、人と稲作と言語の広がりは一致するとは限らないのです(稲作のところをその他の文明・文化的特徴に置き換えても、同じことが言えます)。確かな根拠がないのに、人と稲作と言語の広がりは常に一体だと思い込んでしまうから、日本人の起源探しも、稲作の起源探しも、日本語の起源探しも難航するのです。日本の例でも明らかになってきましたが、なぜ人と稲作と言語の広がりが必ずしも一致しないのか考えてみることにしましょう。

ほぼ朝鮮半島と日本列島に限られているY染色体DNAのO-M176がどこから来たのかという問題も、興味深い問題であり、中核的な問題です。

 

参考文献

Chaubey G. et al. 2011. Population genetic structure in Indian Austroasiatic speakers: the role of landscape barriers and sex-specific admixture. Molecular Biology and Evolution 28(2): 1013-1024.

Chaubey G. et al. 2020. Munda languages are father tongues, but Japanese and Korean are not. Evolutionary Human Sciences 2: e19.

Delfin F. et al. 2011. The Y-chromosome landscape of the Philippines: Extensive heterogeneity and varying genetic affinities of Negrito and non-Negrito groups. European Journal of Human Genetics 19(2): 224-230.

Li H. et al. 2007. Y chromosomes of prehistoric people along the Yangtze River. Human Genetics 122(3-4): 383–388.

Nonaka I. et al. 2007. Y-chromosomal binary haplogroups in the Japanese population and their relationship to 16 Y-STR polymorphisms. Annals of Human Genetics 71(4): 480-495.

Wang C. et al. 2013. Inferring human history in East Asia from Y chromosomes. Invetigative Genetics 4(1): 11.

Xue Y. et al. 2006. Male demography in East Asia: A north-south contrast in human population expansion times. Genetics 172(4): 2431-2439.

最近の考古学のちょっと危ない傾向、遼東半島の稲作をめぐる問題

紀元前1500年頃(つまり3500年前頃)からイネの栽培(稲作)が朝鮮半島に導入されたことは、これまで何度もお話ししてきました(図はRobbeets 2021より引用)。

イネの栽培は山東省と遼東半島から導入されたのではないかと考えられてきたわけですが、現在では大部分の考古学者の目は遼東半島に向いています。北のほうにある遼東半島でイネの栽培が行われていたという事実(Jin 2009、Zhang 2010)がセンセーショナルで、遼東半島が注目をほぼ独り占めしてしまった感があります。しかし、筆者は、「遼東半島→朝鮮半島」という経路だけに注目し、「山東省→朝鮮半島」という経路に注目しないのは、不適切だろうと考えています。

前回の記事では、紀元前1500年頃から、内陸にいた殷が西から侵攻してきて、山東省の住民が東に逃れたのではないかと述べました(東アジアの運命を決定した三つ巴、二里頭文化と下七垣文化と岳石文化を参照)。紀元前1900~1500年頃に山東省で栄えていた岳石文化は、殷に滅ぼされる形で終わりを迎えました。山東省で栄えた岳石文化が滅ぼされるタイミングと、朝鮮半島にイネの栽培が出現するタイミングはよく合うので、岳石文化の農業がどうなっていたのか見てみることにしましょう。

ちなみに、日本語は「山東省→朝鮮半島」という移動があったことをはっきりと示しています(過去の記事を参照)。
日本語が来た道:遼河流域→山東省→朝鮮半島→日本列島
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岳石文化の農業

岳石文化の農業は、Guo Rongzhen氏らによって詳しく調べられています(Guo 2019)。山東省の地理は非常に変化に富んでいるので、山東省のある場所だけを調べて、山東省一般について語ることはできません。その点、Guo氏らの研究は、山東省をまんべんなく調べているので、信頼が置けます。

岳石文化の時代(紀元前1900~1500年頃)の山東省では、イネ、アワ、キビ、コムギ、オオムギが栽培されていたことが明らかになっています。ここにイネとコムギとオオムギが含まれているのは重要です。無文土器時代(紀元前1500年頃~)の朝鮮半島にイネとコムギとオオムギが新登場するからです。おそらく、無文土器時代の朝鮮半島では、イネとコムギとオオムギが新登場し、アワとキビが再登場したのではないかと思われます。アワとキビの栽培は、無文土器時代よりはるかに前に朝鮮半島に導入されましたが、かつてのアワとキビの栽培は、無文土器時代が始ろうかという頃にはすっかり衰えていました(激動の時代、うまくいかなくなったアワとキビの栽培、うまくいかなくなったイネの栽培を参照)。アワとキビの栽培は、無文土器時代の朝鮮半島で再び勢いづき、イネの栽培と同じ頃に日本列島に伝わりました(Endo 2021)。最終的にイネが主食になりましたが、かつての日本ではアワとキビも盛んに栽培されていました。

岳石文化の時代の山東省でイネ、アワ、キビ、コムギ、オオムギが栽培されていたという事実は、その後の朝鮮半島の歴史展開とよく合いますが、山東省のいたるところでイネ、アワ、キビ、コムギ、オオムギという五種類の穀物が栽培されていたわけではありません。山東省のそれぞれの地点で、この五種類の穀物のうちのどれが栽培されていたかは異なります。イネ、アワ、キビ、コムギ、オオムギはいずれもイネ科の植物で、その意味では似た者同士です。ほかにも様々な食べ物が必要なわけですから、全く同じ人たちがこの五種類の穀物を栽培するとは考えづらいです。

Guo氏らは、岳石文化の時代の山東省では、アワとキビの栽培に比べて、イネの栽培が低調気味であると述べています。山東省は、黄河文明の最初期から後李文化(こうりぶんか)→北辛文化(ほくしんぶんか)→大汶口文化(だいぶんこうぶんか)→山東龍山文化(さんとうりゅうざんぶんか)→岳石文化(がくせきぶんか)と変遷しましたが、後李文化~大汶口文化の時代にはイネの栽培を行おうとしてもうまくいかない状態でした。山東龍山文化の時代(紀元前2600~1900年前頃)に入って、初めてイネの栽培がうまくいったのです。山東龍山文化はイネの栽培とともに大いに繁栄しましたが、これは山東龍山文化の時代の早期~中期に限った話で、気候変化に見舞われた晩期には著しく衰退しました(Gao 2009)。(高い温度を必要とする)イネの栽培がかつてほどうまくいかなくなってしまったことが大きいです。山東龍山文化の時代の晩期にも、岳石文化の時代にも、イネの栽培は行われていましたが、かつての勢いはありませんでした。

ここで考えたいのが、遼東半島の稲作をめぐる問題です。

遼東半島の稲作

遼東半島でイネの栽培が行われていたことは確かです(Jin 2009、Zhang 2010)。山東龍山文化の時代の山東省でイネの栽培が盛んに行われるようになり、それがすぐに遼東半島に伝わりました。遼東半島では、山東龍山文化に対応する時代にも、岳石文化に対応する時代にも、イネの栽培が見られたことが明らかになっています(Jin 2009、Zhang 2010)。あんなに北にある遼東半島でイネの栽培が行われていたのかと、驚きをもって迎えられたのは、よくわかります。

しかし、山東省で行われていたイネの栽培が遼東半島に伝わり、その後、山東省と遼東半島の両方でイネの栽培が行われたというのが真相です(山東省と遼東半島の間には往来がありましたが、山東省の側が遼東半島の側に影響を与えるというのが主たる方向です(Duan 2003))。それにもかかわらず、紀元前1500年頃から始まる朝鮮半島のイネの栽培の起源の話になると、「遼東半島→朝鮮半島」という経路が大きく取り上げられ、「山東省→朝鮮半島」という経路は脇にどけられてしまう傾向があるのです。これには、違和感を覚えます。筆者はイネの栽培の伝播は以下の図のように考えるべきだろうと思っています。

長江流域で行われていたイネの栽培が山東省に伝わり、山東省で行われていたイネの栽培が遼東半島に伝わります。そして、山東省と遼東半島の両方で行われていたイネの栽培が朝鮮半島に伝わり、朝鮮半島で行われていたイネの栽培が日本列島に伝わります。そういう展開です。

ところが、遼東半島に目を向けている多くの考古学者は、上の図の赤い矢印を消して、イネの栽培が「長江流域→山東省→遼東半島→朝鮮半島→日本列島」と伝わってきたと説明しようとする傾向があります。

朝鮮半島には紀元前1500年頃からイネの栽培を行う農耕民が現れますが、その頃に山東省でイネを栽培していた農耕民には、東に移動しようとする深刻な理由があります。前回の記事でお話ししたように、西から殷が侵攻してきているからです(東アジアの運命を決定した三つ巴、二里頭文化と下七垣文化と岳石文化を参照)。

岳石文化の人間集団は、遼東半島の人間集団に比べて、人数が多く、多様だったと考えられます(面積が全然違うので、当然といえば当然です)。夏殷周のあった黄河中流域から見て、東方の異民族を「夷(い)」と総称していましたが、「畎夷、于夷、方夷、黄夷、白夷、赤夷、玄夷、风夷、阳夷」のように細かく呼び分けてもいました(Wei 2017)。中国東海岸地域は、もともと黄河下流域と長江下流域に挟まれているうえに、遼河流域の人たちが入り込んできたので、非常に複雑な様相を呈していたと見られます。紀元前1500年頃から始まる無文土器時代の朝鮮半島に現れた農耕民が、最初からある程度多様だったという話もうなずけます(農耕民と狩猟採集民が出会う時、新しくやって来た農耕民は実は・・・を参照)。

山東省から朝鮮半島に向かう流れを、考古学だけでなく、生物学の観点からも考えてみましょう。以前に、Y染色体ハプログループCとY染色体ハプログループDについてお話ししたことがありました。今度は、日本人に最も多く見られるY染色体ハプログループOについてお話しします。

筆者が上に示したイネの栽培の伝播図を見て、イネが長江流域から日本列島に直接来た可能性はないのか、あるいは長江流域より南の台湾・フィリピン・インドネシア方面から日本列島に直接来た可能性はないのかと思った方もいるのではないでしょうか。その問題も併せて取り上げます。

 

参考文献

英語

Endo E. et al. 2021. The onset, dispersal and crop preferences of early agriculture in the Japanese archipelago as derived from seed impressions in pottery. Quaternary International (in press).

Robbeets M. et al. 2021. Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature 599(7886): 616-621.

その他の言語

Duan T. 2003. 胶东半岛和辽东半岛岳石文化的相关问题. 边疆考古研究 0: 131-151.(中国語)

Gao J. et al. 2009. 岳石文化时期海岱文化区人文地理格局演变探析. 考古 11: 48-58.(中国語)

Guo R. et al. 2019. 岳石文化农业经济的植物考古新证. 东南文化 01: 87-95.(中国語)

Jin G. et al. 2009. 辽东半岛南部农业考古调查报告——植硅体证据. 东方考古 6: 306-316.(中国語)

Wei J. 2017. 从夏、夷、商三族关系看夏文化. 中原文化研究 03: 36-41.(中国語)

Zhang C. 2010. 辽东半岛南部农业考古新发现与突破. 辽宁省博物馆馆刊 0(1): 113-120.(中国語)

東アジアの運命を決定した三つ巴、二里頭文化と下七垣文化と岳石文化

前回の記事では、山東省で栄えた山東龍山文化(さんとうりゅうざんぶんか)が衰退し、そこに新しい人たちが入ってきたことをお話ししました。こうして、山東省に残っていた人たちと新しく入ってきた人たちによって形成されたのが、丘石文化(がくせきぶんか)です。新しく入ってきた人たちというのは、前回の記事でお話ししたように、遼河流域にいた人たちです。

紀元前1900年頃から山東省で岳石文化が始まりましたが、その岳石文化は以下の図のように二里頭文化(にりとうぶんか)と下七垣文化(かしちえんぶんか)という二つの大きな文化と隣接していました。

二里頭文化という名前は、中国の歴史あるいは考古学に興味を持っている方ならご存じでしょう。中国の歴史書に最初の王朝として記されている夏ではないかと言われている文化です(中国の歴史書としては、史記、竹書紀年、左伝などがあります)。下七垣文化という名前は、ほとんど知られていないでしょう(先商文化(せんしょうぶんか)とも呼ばれます)。下七垣文化は殷の母体、つまり下七垣文化からのちに殷が生まれます(中国ではyīn(殷)インと言わずに、shāng(商)シャンと言うので、注意してください)。

この二里頭文化と下七垣文化と岳石文化の三つ巴から始まる展開が、東アジアの歴史にとって決定的に重要になります。この三者の中で、最も先進的で、最も栄えていたのは、二里頭文化です。二里頭文化の物品は、下七垣文化と岳石文化によく入っています。下七垣文化の物品も、二里頭文化と岳石文化によく入っており、岳石文化の物品も、二里頭文化と下七垣文化によく入っています。三者の間に普通に交流があったことは明らかです(Wei 2017)。

※考古学的には、二里頭文化が存在したこと、そして二里頭文化が当時最も先進的で、最も栄えていたことは確実です。では、中国内外で夏王朝の実在が今でも問題になっているのはなぜでしょうか。それは、中国の歴史書に書かれていることがどこまで本当かわからないからです。中国の歴史書には、夏王朝にはこういう統治者がいた、こういうことをした、こういう統治者がいた、こういうことをしたと書かれていますが、二里頭文化の人間集団が書かれている通りの人間集団だったかどうかはわからないということです。要するに、二里頭文化の人間集団が最も先進的で、最も栄えていたことは間違いないが、その人間集団が後世の歴史書に正しく(つまり作り話なしで)記述されているかどうかはわからないということです。かつては、夏だけでなく、その次の殷の実在も疑われていました。しかし、殷の場合には、殷の時代に相当する遺跡から甲骨文字(亀の甲羅などに刻まれた文字)が発見され、その甲骨文字の記述が後世の歴史書の記述と合っていたことから、実在が認められるに至りました。

二里頭文化は最終的に、下七垣文化の勢力によって武力で滅ぼされます。興味深いことに、中国の歴史書には、二里頭文化を滅ぼした下七垣文化の勢力のことだけでなく、この勢力の先祖のことまで書かれており、先祖(の一部)が夏王朝に仕えていたことが書かれています(Wei 2017)。これは異常なことではありません。本来なら王朝に仕えるはずの者、豪族、武将などが王朝を転覆させてしまうことは、古代からよくありました。これは珍しいパターンではなく、むしろ頻出パターンです。もっと興味深いのは、下七垣文化の勢力が二里頭文化を滅ぼすために「連合」を組み、この「連合」に岳石文化の勢力も加わっていたようだということです(Tian 1997、Zhang 2002)。

ここで出てきた「連合」という概念は、決して特殊なものではありません。殷も連合を組んで夏を倒しにいったし、周も連合を組んで殷を倒しにいきました。人類の歴史を語る時に戦争は外せませんが、そこに出てくる「連合」も外せません。「連合」は大きな要因です。単独の相手なら倒されない強者も、「連合」を組まれて倒されてしまうことがあります。「連合」が組まれると、戦いの規模が大きくなります。さらに、勝利を収めた「連合」の内部で対立が生じることもあります。「連合」は大きな波乱要因とも言えます。

※日本の古代史の大きな争点となってきた倭国大乱と邪馬台国についてもいずれお話ししたいと思っていますが、日本の形成においても「連合」の存在が重要だったようです。

下七垣文化の勢力は、二里頭文化を滅ぼして殷王朝を建てました。殷王朝は、自分の援軍となってくれた岳石文化の勢力と、しばらくは良好な関係を保っていました(Xu 2012)。この良好な関係が崩れたのは、殷の第10代の王である中丁(ちゅうてい)の時代です(Xu 2012)。ここで初めて、殷が夷(東方の異民族の総称)を攻撃したという記述が歴史書に現れます。以後、殷の時代の終わりまで攻撃が繰り返されます。もちろん、勝者(すなわち殷)の言い分が反映された中国の歴史書では、夷が悪いことをしたので、殷が成敗したという話になっています。しかし、実際のところはわかりません。

考古学的には、殷の文化が岳石文化をどんどん塗り替えていく様子が捉えられています(Xu 2012)。Xu氏は戦争があったことを考古学的に確かめようとしていますが、3000年以上も前のことなのでなかなか難しそうです。殷の文化が岳石文化をどんどん塗り替えていったことを確かめるのは容易だが、その原因が戦争であることを確かめるのは容易でないということです。しかし、中国の歴史書の記述と合わせると、殷が山東省に大々的に侵攻したと考えざるをえません。科学が高度に発達した現代では、自然環境の変化はよく捉えられるようになってきましたが、特定の戦争の存在を捉えるのはなかなか難しいようです。

ちなみに、殷王朝の正確な開始時期は中国の歴史書からはわからず、考古学のデータから紀元前1700~1600年頃と推定されています。殷の初代の王は湯(とう)で、第10代の王が先ほど出てきた中丁です。殷の王位は、父から息子に継承されることもあれば、兄から弟に継承されることもありました。湯の五世代下に中丁がいます。一世代25~30年とすれば、125~150年の差があります。ここに挙げた数字は大いに注目に値します。紀元前1500年頃から朝鮮半島にイネの栽培を行う農耕民が現れたという事実と非常によく合うからです(激動の時代、うまくいかなくなったアワとキビの栽培、うまくいかなくなったイネの栽培などを参照)。

殷が西から侵攻し、山東省の住民が東に逃れた可能性が高まってきました。朝鮮半島と日本列島に大きく関わる問題であり、ここは深く切り込まないといけないでしょう。

 

参考文献

Tian C. et al. 1997. ”景亳之会”的考古学观察. 殷都学刊 04: 1-5.(中国語)

Wei J. 2017. 从夏、夷、商三族关系看夏文化. 中原文化研究 03: 36-41.(中国語)

Xu Z. 2012. 商王朝东征与商夷关系. 考古 02: 61-75.(中国語)

Zhang G. 2002. 論夏末早商的商夷聯盟. 郑州大学学报(哲学社会科学版) 02: 91-97.(中国語)