「日本語はどこから来たのか」、この問いには二つの意味がある、私たちは何を知ろうとしているのか

日本の最高位にあった蘇我馬子が死んだ後、日本の歴史はどうなったのかというのは、非常に興味深い問題ですが、蘇我馬子が死んだ後の時代は、まさに激動の時代で、様々な説が飛び交っている時代でもあります。日本書紀の制作者らが、過去の記録をすべて葬り、嘘で固めた日本書紀を残したことが、根本原因です。日本書紀には、正義の中大兄皇子(のちの天智天皇)が悪の蘇我入鹿を斬り殺した話が堂々と記されていますが、これも史実ではないようです。さらに先行研究を消化したうえで、続きをお話ししたいので、この問題からは少しの間離れることにします。

本ブログの主題である日本語の歴史に立ち返りましょう。

近年の考古学および生物学の進歩は本当にすばらしく、筆者も言語の歴史を研究する際の考え方、方針、方法を大きく改めることになりました。

何千年~何万年にわたる言語の歴史を研究する際には、農耕が始まる前の人間世界についてよく知ることがとても重要です。農耕が始まったことによって、ユーラシア大陸は激変し、かつてのユーラシア大陸の姿が見づらくなっている、あるいは見えなくなっています。

しかし、幸いなことに、貴重な生き証人がいます。それは、アメリカ大陸のインディアンです。東アジアの人々にとっては、アメリカ大陸のインディアンは、どこか似ていて、どこか違う感じがする、不思議な人々でしょう。

アメリカ大陸のインディアンは、ユーラシア大陸が農耕の開始によって激変する前に、ユーラシア大陸からアメリカ大陸に移っています。そのため、かつてのユーラシア大陸を知るうえで、非常に重要な存在なのです。

2014年に、M. Raghavan氏らが、「Upper Palaeolithic Siberian genome reveals dual ancestry of Native Americans」と題された論文を発表しました(Raghavan 2014)。

考古学の世界では、アフリカから中東に出た後、中央アジアに向かった人間集団と、東南アジアに向かった人間集団がおり、この二つの人間集団は東アジアで合流したのではないかという見方が以前からありました(詳細については、東アジアの人々の本質、アフリカから東アジアに至る二つの道および4万年前の東アジアを参照。図はGoebel 2007とBae 2010より引用)。

Raghavan氏らの研究は、上記の考古学者の予想を、生物学(DNA)によって裏づけました。アメリカ大陸のインディアンは、中央アジアからやって来た集団と東南アジアからやって来た集団が混ざり合った人間集団であるということです。Raghavan氏らの研究発表後も、生物学は目覚ましく進歩しており、現在では、アメリカ大陸のインディアンのDNAの30~40%ほどが中央アジアから来ており、60~70%ほどが東南アジアから来ていることがわかっています(Moreno-Mayar 2018、Yu 2020)。

シベリアで発見された24000年前頃のMal’taさんと17000年前頃のAfontova Gora 2さんは、考古学者、生物学者、人類学者の間では、有名人です(図はRaghavan 2014より引用)。

Mal’taさんはバイカル湖の近くで発見され、Afontova Gora 2さんはバイカル湖よりいくらか西で発見されました。バイカル湖というのは、現代のモンゴルのすぐ上にある湖です。Mal’taさんとAfontova Gora 2さんの存在は、人類の歴史において意味深長です。

Mal’taさんとAfontova Gora 2さんはともに男性で、Mal’taさんのY染色体DNAはR系統、Afontova Gora 2さんのY染色体DNAはQ系統です。Mal’taさんのR系統も、Afontova Gora 2さんのQ系統も、中東から中央アジアに進出した人間集団から来ていることが確実な系統です(R系統とQ系統は近縁な系統で、R系統は現代のヨーロッパの人々で支配的であり、Q系統はアメリカ大陸のインディアンで支配的です)。

Mal’taさんについては、遺骨の保存状態がよく、Y染色体DNAだけでなく、全DNAが詳しく調べられています。Mal’taさんは、どんな人だったのでしょうか(図はZhang 2021より引用、一部改変)。

図中の「MA-1」が、Mal’taさんです。Mal’taさんのDNAは、明らかに現代のヨーロッパの人々のDNAに近いです。特に、東アジアの人々のDNAとは全く関わりがありません。図中の「YR_MN」は黄河文明の人々、「WLR_MN」は遼河文明の人々、「Baikal_EN」はそれらの文明が始まった頃のバイカル湖周辺の人々、「AR_EN」はそれらの文明が始まった頃のアムール川流域の人々ですが、これらの人々のDNAがほとんど同じに見えてしまうくらい、Mal’taさんのDNAはかけ離れています。

時代が違うことに注意してください。Mal’taさんは24000年前頃の人です。それに対して、「YR_MN」、「WLR_MN」、「Baikal_EN」、「AR_EN」の人々は、せいぜい過去10000年以内の人々です。

すでに述べたように、Mal’taさんはバイカル湖の近くで発見されました。バイカル湖のすぐ下はモンゴルです。モンゴルの左脇は、中国北西部(ウイグル)です。モンゴルの右脇は、中国北東部(遼河流域)です。Mal’taさんは、東アジアのすぐ近くで生きていた人なのです。しかし、Mal’taさんのDNAは、東アジアの人々のDNAと全然違うのです。

Mal’taさんは特殊な人なのかというと、決してそうではありません。同じ図中のAfontova Gora 3さん(「AG3」、女性です)を見てください。Afontova Gora 3さんのDNAも、明らかに現代のヨーロッパの人々のDNAに近く、東アジアの人々のDNAとは全く関わりがありません。

これは一体どういうことでしょうか。

農耕が始まったことによって、ユーラシア大陸は激変したが、かつては、バイカル湖周辺に西洋風の人々が住んでいたということです。

20世紀に、中国北西部のタリム盆地で謎のミイラが続々と発見され、話題になりました。特に注目されたのは、ミイラが中国人風というより、西洋人風だったからです。インド・ヨーロッパ語族の人々がやって来たのかと考えられていましたが、最近の研究でそうではないことがわかりました(Zhang 2021)。

先ほどの図をもう一度見てください。「Tarim_EMBA1」と「Tarim_EMBA2」が、タリム盆地の謎の人々です。タリム盆地の謎の人々のDNAが、Mal’taさんとAfontova Gora 3さんのDNAに近いのがわかります。「MA-1」と「AG3」の位置から、東アジアの人々のほうへ少し引っ張ると、「Tarim_EMBA1」と「Tarim_EMBA2」の位置になります。東アジアの人々が少し混じったということでしょう。

タリム盆地の謎の人々の正体が明らかになると同時に、バイカル湖周辺に西洋風の人々が住んでいたことがますます確実になってきました。

バイカル湖周辺に住んでいた西洋風の人々に言及したのは、訳があります。どうも、この人たちの言語(あるいはその中の一部)が、(1)インド・ヨーロッパ語族、(2)モンゴル系言語、(3)遼河文明の言語(ウラル語族、日本語など)の成り立ちに関係していそうなのです。筆者の研究ではちょうど、そのような展望が開けてきたところです。

新しい展望について、お話ししましょう。

※現存する言語だけを取り上げて、人類の言語の歴史を語ろうとするのは、現代人のよくない癖です。したがって、上記の筆者の言い方も、よい言い方ではありません。(1)、(2)、(3)以外にも多数の言語が存在したが、それらはすべて消滅し、(1)、(2)、(3)しか残らなかったということです。決して(1)、(2)、(3)だけで歴史が展開していたわけではありません。

 

参考文献

Moreno-Mayar J. V. et al. 2018. Terminal Pleistocene Alaskan genome reveals first founding population of Native Americans. Nature 553(7687): 203-207.

Raghavan M. et al. 2014. Upper Palaeolithic Siberian genome reveals dual ancestry of Native Americans. Nature 505(7481): 87-91.

Yu H. et al. 2020. Paleolithic to Bronze Age Siberians reveal connections with First Americans and across Eurasia. Cell 181(6): 1232-1245.

Zhang F. et al. 2021. The genomic origins of the Bronze Age Tarim Basin mummies. Nature 599(7884): 256-261.