「島(しま)」の語源

前回の記事では、横になった状態を意味したyokosama/yokosimaという語が出てきました。yokosama/yokosimaのsamaとsimaは向き・状態を意味していますが、これらの語源を明らかにするために、まずはsima(島)の話をします。

ラテン語では、島のことをinsulaと言いました。ラテン語のinsulaの語源は不明とされてきましたが、それはインド・ヨーロッパ語族の外へ目を向けてこなかったからです。ウラル語族には、フィンランド語のsula(溶けた)、sulaa(溶ける)のような語があります。インド・ヨーロッパ語族とウラル語族の両方に語彙を提供した言語群があり、その言語群で水のことをsulaのように言っていたと見られます。ラテン語のinsula(島)はinとsulaがくっついてできた語で、「水の中、水域の中」という意味だったのです。

水・水域を意味していた語が隣接する陸の部分を意味するようになるのは頻出パターンですが、水・水域と島の関係も密接です。ラテン語のinsula(島)だけでなく、英語のisland(島)アイランドもそうです。英語ではある時からislandと綴るようになりましたが、island(島)の発音に子音sが含まれていたことはありません。古英語にieg(島)という語があって、これにlandが付け足されてiegland(島)になり、iland(島)を経て、現代のisland(島)に至ります。古代北ユーラシアの巨大な言語群で水を意味したjak-、jik-、juk-、jek-、jok-のような語がラテン語aqua(水)、フィンランド語jää(氷)ヤー、ハンガリー語jég(氷)イェーグなどになったことはお話ししましたが、古英語のieg(島)もここから来ているのです。

このような水・水域と島の密接な関係を見ると、日本語のsima(島)もひょっとしてと考えたくなります。実際その通りで、日本語のsima(島)の語源も「水」なのです。そこからsimu(染む)やsimeru(湿る)のような語ができました。前回の記事でお話しした第三のパターンも思い出してください。水を意味していた語が水と陸の境を意味するようになり、水と陸の境を意味していた語が糸などを意味するようになるパターンです。ひょっとしたら、simaも紐などを意味しようとしたが、それが叶わず、simu(締む)やsibaru(縛る)のような語を残したのかもしれません(sibaruにはsimaruという異形がありました)。

少なくとも、simaが水と陸の境を意味していたことは確実です。それは別のところから窺えます。日本語には、simenawa(しめ縄)という語があります。出雲大社のしめ縄が有名です(写真は毎日新聞社様のウェブサイトより引用)。

出雲大社のしめ縄は、「ここから先は神聖な領域である」と言っています。しめ縄は、神域と俗世の境を示しているのです。奈良時代のsimenaɸa(しめ縄)は、標識(目印)を意味するsime(標)とnaɸa(縄)がくっついた語です。境を意味していたsimaが、そこに設けられる標識を意味するようになり、その結果がsime(標)であると考えられます。「ここは私たちのものだ」と言って、そのようなsime(標)を出すことがよくあったのでしょう。ここから、占有・占領を意味するsimu(占む)が生まれたと見られます。

※simaは水を意味していたところから島を意味するようになりましたが、このsimaと同類と考えられるのがsimoです。simoはおそらく、雪または氷を意味していたが、他の語に圧迫されて、霜を意味するようになったと見られます。

このように、水を意味したsimaから様々な語が生まれました。では、冒頭に挙げたyokosimaのsimaはどうでしょうか。さらに、yokosamaのsamaはどうでしょうか。このsimaとsamaは向きを意味していたところから状態を意味するようになったと見られます。例えば、同一人物の三枚の顔写真が並んでいるところを想像してください。一枚目では、正面を向いています。二枚目では、右を向いています。三枚目では、左斜め上を向いています。simaとsamaはこのような向きの違いを表す語で、そこから抽象化が進んで、状態の違いを表す語になったと見られます。もしかして、水を意味していたsimaが向きを意味するようになったのでしょうか。同じように、水を意味していたsamaが向きを意味するようになったのでしょうか。

アムール川・遼河周辺に、水のことをjak-、jik-、juk-、jek-、jok-のように言ったり、am-、um-、om-のように言ったりするインディアン系の言語が存在し、それらが遼河文明の言語とツングース系言語に取って代わられたのは、本ブログで示している通りです。インディアン系言語の「水」が日本語にこれだけ大量に入っているのなら、ツングース系言語の「水」も日本語に入ったのではないかと考えたくなります。ツングース系言語では、水のことをエヴェンキ語mūムー、ナナイ語mueムウ、満州語mukeムクのように言います。先ほどの水を意味していたsimaが向きを意味するようになったのではないかという話と考え合わせると、ツングース系言語の「水」が日本語のmuki(向き)/muku(向く)になった可能性が高いです。なぜ水を意味していた語が向きを意味するようになるのでしょうか。

おそらく、川が理由でしょう。川は普通、ある程度蛇行しながら流れています。水を意味していた語が流れを意味するようになり、流れを意味していた語が向きを意味するようになると考えられます。muki(向き)/muku(向く)だけでなく、mukasi(昔)も関係があると思われます。mukasi(昔)に含まれているmukaが最も古い形かもしれません。流れることあるいは進むことを意味するmukaに方向を意味するsiがくっついてmukasiです(yokosama/yokosima/yokosa/yokosiのところで出てきた方向を意味するsiです)。mukasiが前方を意味し、現代のmae(前)と同じように過去を意味するようになったのか、それとも、mukaに過ぎ去るのような意味が生じてmukasi(昔)が成立したのか不明ですが、どちらかが真相でしょう(ちなみに、類義語のinisiɸe(古)は、行くこと・去ることを意味するinu(往ぬ)+過去の助動詞ki(き)+方向を意味するɸe(方)という形をしています)。mukimuki(むきむき)という語があることから、川から上がって盛り上がりを意味する展開もあったと思われます。

向きを意味したsama、simaおよびmuki(向き)の語源が「水」である可能性が濃厚になってきましたが、samaの語源も本当に「水」なのでしょうか。