「体(からだ)」の語源、春秋戦国時代以前の中国語

隋(AD581~AD618)の頃に、当時の中国語の漢字音を細かく整理した切韻(せついん)という書物が作られました。この切韻のおかげで、隋の頃の中国語の漢字音はほぼ正確に知られています。

しかし、それ以前の中国語の漢字音は不確かな部分がかなりあります。切韻は隋の頃のある方言について記されたにすぎません。現代の中国語の全方言も調べると、精度は落ちますが、隋よりいくらか前の漢(BC206~AD220)の頃の中国語の漢字音を窺うことができます。

漢より前の時代(殷、周、春秋戦国)の中国語の漢字音の研究は、難易度が一気に上がります。それでも、少しずつ進歩しています。漢字は西洋の言語のアルファベットと違って直接的に発音を教えてくれないため、この漢字とこの漢字は発音が同じだったらしい、この漢字とこの漢字は発音が似ていたらしい、この漢字とこの漢字は発音の一部が共通していたらしいというような情報を蓄積していかなければならず、ここに独特の難しさがあります(例えば、周の時代に編集された詩経(しきょう)は、詩が韻を踏んでおり、貴重な資料になっています。韻を踏むというのは、発音上共通点のある語を繰り返すことです)。

隋の頃の中国語に太陽を意味するnyit(日)ニトゥという語があり、nyitのtの部分がかつてkだったらしいとお話ししました。そして、その太陽を意味する中国語から日本語のnikoyaka(にこやか)、nikoniko(にこにこ)、nikkori(にっこり)などが来ているらしいとお話ししました(人間の笑い—ニコニコ、ニヤニヤ、ニタニタにも語源があるを参照)。中国語のほうで遠い昔に失われてしまった姿が日本語のほうに残っているケースがあるのです。

隋の頃の中国語にkan(乾)とkan(幹)という語がありましたが、kanのnの部分がかつてrだったらしいということがわかってきました( Baxter 2014 )。Baxter氏らは豊富な例を挙げており、多くの漢字でrがnになる変化が起きたようです。

乾燥を意味した古代中国語のkan(乾)のnの部分がrだったとすると、日本語の「喉がカラカラ」のkarakara(カラカラ)とよく合います。kareru(枯れる)の古形であるkaru(枯る)ともよく合います。

同様に、樹木の幹や人間・動物の胴体または一般に体を意味した古代中国語のkan(幹)のnの部分がrだったとすると(英語のtrunkやそのもとになったラテン語のtruncusトルンクスも樹木の幹を意味したり、人間・動物の胴体を意味したりしており、これらは非常に近い意味領域と考えられます)、奈良時代の日本語のkara(幹、茎、柄)とよく合います。奈良時代の日本語のkara(幹、茎、柄)は、植物の幹・茎を意味していました。

この奈良時代の日本語のkara(幹、茎、柄)が、古代中国語、ラテン語、英語などのように、樹木の幹を意味するだけでなく、人間・動物の胴体、さらに一般に体を意味するようになっていったと思われます。奈良時代のye(枝)からyeda(枝)という形が生まれましたが、それと同じように、上記のkaraからkaradaという形が生まれたと見られます。

奈良時代の日本語のkara(幹、茎、柄)は、一般に体を意味するようになっていくなかで、kara(殻)という語も生み出したと見られます。精霊信仰・アニミズムのところでお話ししたように、昔の人々は肉体に霊魂が宿っていると考えており、前者は後者を収める容器のように見られていました。このような見方が、kara(殻)という語を生み出したと見られます。

ちなみに、Baxter氏らは古代中国語のhan(韓)のnの部分もかつてrだったと考えています。昔の日本人は朝鮮半島南部、のちに朝鮮半島全体をkaraと呼んでいましたが、なんらかの関係があるかもしれません。昔の日本語にはhという子音がなく、他言語のhはɸ(またはその前身のp)にしたり、kにしたりしていました。多くの漢字でrがnに変化したとするBaxter氏らの考えは、的を外していないように見えます。

中国の春秋戦国時代は激動の時代で、日本語の複雑な歴史、インド・ヨーロッパ語族はこんなに近くまで来ていたの記事で示したように、様々な言語がひしめいていた地域が中国語一色に染まりました。この戦乱の時代に、多くの言語が消えましたが、中国語自体の方言(あるいは方言よりほんの少し隔たった言語)もかなり消えたと見られます。

日本語とベトナム系言語は、中国東海岸地域から追い出されてしまいましたが、春秋戦国時代以前の中国語と接していたと考えられ、殷の時代~周の時代~春秋戦国時代の中国語の研究で重要になってくると思われます。

 

参考文献

Baxter W. H. et al. 2014. Old Chinese: A New Reconstruction. Oxford University Press.