「むしろ(寧ろ)」とはどういう意味か?

この記事は「背(せ)」の語源「尻(しり)」の語源に関連した記事です。

現代の日本語にmusiro(むしろ)という語があります。この語は奈良時代から現代と同じような意味で使われています。musiro(むしろ)は日本語のネイティブにとってもちょっとよくわからないところがある語ではないでしょうか。例えば、くろしお出版の日本語文型辞典(グループジャマシイ1998)には、以下のような例文が載っています。

・じゃましようと思っているわけではない。むしろ君たちに協力したいと思っているのだ。
・お盆のこむ時期には、旅行なんかするよりも、むしろ家でゆっくりしたい。
・行きたくない大学に無理をして行くぐらいなら、むしろ働きたいと思っている。
・あの人は天才というより、むしろ努力の人です。

「むしろ」は「どちらかといえば」と似ていると説明されることがありますが、「むしろ」は「どちらかといえば」とは似て非なるものです。例えば文脈なしに「コーヒーと紅茶、どっちがいいですか」と訊かれた場合の返答として、以下の(A)、(B)、(C)はどうでしょうか。

(A)コーヒーがいいです。
(B)どちらかといえばコーヒーがいいです。
(C)むしろコーヒーがいいです。

この場合の返答として、(A)と(B)は自然ですが、(C)は不自然です。「むしろ」の本質は、「どちらかといえば」のように大して差がないことを示すことではないのです。先ほどの場合では、(C)の返答は不自然でしたが、例えばその場にいる人たちが紅茶がいいと言っているような状況があれば、(C)の返答は自然になります。「むしろ」の本質とは、一体なんでしょうか。

musiro(むしろ)とusiro(うしろ)

岩波古語辞典(大野1990)に、usiro(うしろ)はmi(身)の古形である*muとsiri(尻)の古形である*siroがくっついた*musiroが変化したものであるという説明があり、筆者も同じ考えであると前にお話ししました。

ウラル語族のフィンランド語selkä(背)セルカ(推定祖形は*sjelkVで、sjeの部分の発音はスィエに近く、Vはなんらかの母音です)などからして、日本語の*siroはもともと背を意味していたと見られます。その後、意味が広がってきたために、*mu(身)をくっつけて、体の背面であることを強調したと見られます。こうして生まれたのが*musiroで、この*musiroから生まれたのがusiroです(昔の日本語ではmuで始まる形とuで始まる形が並存することがありました)。*musiroという形からusiroという形が生まれたら、*musiroは消滅するのかというと、必ずしもそうとは限りません。

前回の記事の中で、ye(枝)という形からyeda(枝)という形が生まれたことをお話ししました。yeda(枝)はeda(枝)になって現代の日本語に残っていますが、ye(枝)はどうなったのでしょうか。実は、ye(枝)は消滅していないのです。主に木の握り部分を意味するようになっていき、e(柄)として残ることになりました。かつてのyeもyedaも生き残っているのです。古い形から新しい形が生まれれば、しばらく古い形と新しい形が並存する期間があります。そこから、古い形が消える場合もありますが、古い形と新しい形が違う意味で残る場合もあるのです。

*musiroとそれから生まれたusiroは、上に述べたように、もともと体の背面を意味していた語です。ところが、ベトナム系の言語から*so(背)(のちにse(背))という語が入ってきて、*musiroとusiroを圧迫し始めます。体の背面を意味していた*musiroとusiroは、意味の変更を迫られるようになったのです。そこから、usiroは私たちが知っている通りの意味になりましたが、*musiroはどうなったのでしょうか。

冒頭に日本語文型辞典の例文を挙げましたが、そこで使われている「むしろ」を見て、皆さんはどう思うでしょうか。「逆に」に近い意味を感じるでしょう。なぜ「むしろ」に「逆に」に近い意味が感じられるのでしょうか。それは、奈良時代から現代まで使われているmusiro(むしろ)という語が、かつて逆・反対を意味していたためだと思われます。

*so(背)に圧迫されて体の背面を意味することができなくなった*musiroは、逆(側)・反対(側)を意味するようになり、さらには、奈良時代から現代まで使われているmusiro(むしろ)になったのでしょう。「むしろ」の意味は若干微妙ですが、筆者は、「逆に」が鋭く対立を示す語であるのに対して、「むしろ」は穏やかな調子または柔らかい調子で話を逆方向、反対方向、あるいはそうでなくとも対照的な方向、違った方向に持っていく語であると考えています。この「むしろ」の控えめな性格が、結果として時に「どちらかといえば」と似た効果をもたらしていると思われます。

musiro(むしろ)とusiro(うしろ)の間に関係がありそうだというのは意外ですが、新しい形が生まれたからといって古い形が必ずしも消えるわけではなく、古い形と新しい形が違う意味で残ることもあるのだと認識しておくことは、人類の言語の歴史を研究するうえで重要でしょう。

 

参考文献

大野晋ほか、「岩波 古語辞典 補訂版」、岩波書店、1990年

グループジャマシイ、「日本語文型辞典」、くろしお出版、1998年。